こぼれた種
青写真は計画ではなかった

朗読で聴く
第一章 方眼紙
七十一になった。
アメリカの小さな町で、郵便局に三十八年勤めた。
辞めて、九年になる。
妻のジューンは三年前に六十九で死んだ。
娘が一人、四十四で、東部の町にいる。
家の裏に、庭がある。
幅十二メートル、奥行き二十メートル。
結婚してこの家に来たとき、わたしは方眼紙に庭を描いた。
一マスを五十センチにして、何を植えるかを全部決めた。
奥にトマト、その手前に豆、左の端にかぼちゃ、右の端に花。
通路は真ん中に一本、まっすぐ。
毎年、春になると、その方眼紙を出してきた。
今年は何をどこに植えるか、鉛筆で書き直した。
郵便局の仕事は、決まった道を決まった順に回る仕事だった。
庭も、同じようにしたかった。
決めたとおりに植えて、決めたとおりに育てる。
方眼紙は、四十年分、台所の引き出しにある。
毎年一枚ずつ、四十枚ある。
古い方眼紙は、黄ばんで、角が丸くなっている。
鉛筆の線は、何度も消して描き直したので、ところどころ、紙が薄くなっている。
最初の一枚だけは、ジューンが清書してくれた。
わたしより字がきれいだったからだ。
第二章 決めたとおりにはいかない
庭は、方眼紙のとおりにはいかなかった。
ある年は、鹿が来て、豆を全部食べた。
ある年は、雨が降らなくて、トマトが枯れた。
かぼちゃは、決めた左の端から、つるを伸ばして、通路をふさいだ。
わたしは、そのたびに、方眼紙に書き込んだ。
鹿、とか、日照り、とか。
次の年は、網を張ったり、水をやる回数を増やしたりした。
決めたとおりにいかなかったところを、決めたとおりに直そうとした。
妻は、庭のことには、あまり何も言わなかった。
わたしの方眼紙を見て、几帳面ね、と言うだけだった。
ただ、妻は種を持って歩く癖があった。
町の店で花の種を買ってきては、エプロンのポケットに入れていた。
植える場所は決めていなかった。
物干しに行くときや、郵便受けを見に行くとき、ポケットからこぼれた。
こぼれても、拾わなかった。
わたしは、それが少し気に入らなかった。
方眼紙に無いところに、何かが生えるからだ。
一度、きちんと場所を決めて植えたら、と言ったことがある。
ジューンは、どこに咲くか分からないほうが楽しいでしょう、と言った。
わたしには、それが分からなかった。
分からないものは、手紙と同じで、行き先が決まっていないと落ち着かない。
第三章 妻がいなくなった春
妻が死んだ次の春、わたしは庭に出なかった。
方眼紙も出さなかった。
何も植えなかった。
植える気が起きなかった。
庭は、そのまま、ほうっておいた。
窓から見ると、土が見えるだけだった。
夏になって、娘が様子を見に来た。
娘は、裏口から庭を見て、しばらく黙っていた。
それから、父さん、見て、と言った。
庭は、花でいっぱいだった。
わたしが植えた場所ではなかった。
物干しの下、郵便受けまでの小道の脇、裏口の石段の隙間。
妻が歩いたところに、花が咲いていた。
黄色いのと、白いのと、紫のが、ばらばらに並んでいた。
方眼紙には、一つも描いていない花だった。
妻のポケットからこぼれた種が、何年もかけて、そこに落ちて、根を張っていた。
毎年、わたしは、その芽を草だと思って抜いていたのだと思う。
抜かなかった年に、全部が咲いた。
娘は、裏口の石段に座って、しばらく花を見ていた。
母さん、ここに毎朝座ってコーヒー飲んでたよね、と言った。
そうだった。
石段の隙間の花は、ジューンが座っていたところのすぐ横に咲いていた。
第四章 四十枚の方眼紙
その晩、引き出しから方眼紙を全部出した。
台所のテーブルに、四十枚を並べた。
どれにも、トマトと豆とかぼちゃと花の場所が描いてあった。
鹿、日照り、と書き込みがしてあった。
決めたことと、うまくいかなかったことが、書いてあった。
けれど、いま庭に咲いている花は、どの一枚にも無かった。
四十年、わたしが描いたものは、庭には残っていなかった。
トマトの列も、豆の列も、今年は一本も無い。
残っているのは、妻が歩いたところだけだった。
物干しに行った道、郵便受けに行った道、裏口の石段。
妻が毎日、実際に足を置いたところに、種が落ちて、花になっていた。
わたしの方眼紙は、庭になるはずだったものの絵だった。
妻の足あとは、庭になったものの跡だった。
娘が、テーブルの方眼紙を一枚取って、見た。
父さん、これ、母さんの道が一本も描いてないね、と言った。
描いてなかった。
通路は、真ん中に一本、まっすぐ描いてあるだけだった。
妻は、その通路を、ほとんど歩いていなかった。
通路は、わたしが畑に出るための道だった。
妻の用事は、畑には無かった。
妻の用事は、物干しと、郵便受けと、裏口の石段にあった。
わたしは四十年、妻の用事を方眼紙に描かなかった。
第五章 決めなかったもの
郵便局で三十八年、決まった道を回った。
決まった道を回ると、手紙は届く。
届いた手紙の中身は、知らない。
わたしが知っているのは、道だけだった。
庭でも、わたしは道だけを描いていた。
どこに何を植えるか、どう通るか。
描いたことは、毎年、どこかで崩れた。
崩れたところを、また描き直した。
描き直しているあいだに、妻は、描かないまま歩いていた。
歩いたところに、種をこぼしていた。
こぼしたことを、覚えてもいなかったと思う。
それが、四十年たって、庭になっていた。
計画どおりにならなかった庭のほうに、妻の毎日が残っていた。
計画どおりにいったトマトの年のことは、方眼紙に丸が一つあるだけで、何も思い出せない。
妻が種をこぼした日のことは、一日も思い出せない。
けれど、その日の跡は、全部、花になっている。
覚えていなくても、跡は残る。
跡が残るのは、実際にそこに何かが置かれた日だけだ。
郵便受けまでの小道の花を見ていると、妻が毎日、手紙を取りに来た姿が浮かぶ。
わたしが配った手紙ではない。
この家に届いた手紙を、妻が取りに来ていた。
その道が、いま、花で分かる。
エピローグ
今年の春も、方眼紙は出さなかった。
かわりに、庭を歩いた。
物干しに行く道と、郵便受けに行く道と、裏口の石段。
妻の歩いた道を、同じ順で歩いた。
芽が出ているところは、抜かなかった。
何の芽か、分からないものも抜かなかった。
夏に、また花が咲いた。
去年より、少し増えていた。
花が種を落として、その種がまた芽を出したのだと思う。
妻がいなくなっても、妻の道は、少しずつ広がっていた。
娘が来たとき、町の店で花の種を一袋買ってきてくれた。
わたしは、それをシャツの胸のポケットに入れた。
植える場所は、決めなかった。
郵便受けまで歩くとき、少しこぼれた。
拾わなかった。
来年、どこに咲くかは、分からない。
分からないところに咲いたものが、たぶん、わたしの跡になる。
方眼紙は、四十枚とも、引き出しに戻した。
捨てなかった。
描いたとおりにならなかった四十年の絵だ。
その絵のとおりにならなかったから、この庭がある。
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