原紙は捨てた
原本は無く、写しだけ

朗読で聴く
第一章 謄写版
七十一になった。
中学校の教員を三十五年やって、六十で辞めた。
妻は六十八で、息子は四十で東京にいる。
若いころ、学級通信を出していた。
週に一回、わら半紙一枚。
最初の十五年は、謄写版で刷っていた。
蝋を引いた原紙に、鉄筆で字を書く。
書いたところだけ、蝋が削れて、インクが通る。
原紙を枠に張って、ローラーでインクを押し出す。
一枚ずつ、刷る。
四十枚刷れば、クラスの分になる。
刷り終わった原紙は、捨てた。
インクで真っ黒になって、もう使えない。
とっておく場所も無い。
とっておこうと思ったことも無い。
刷ったものは、生徒が家に持って帰る。
家で読まれたかどうかは、知らない。
鞄の底で丸まって、そのまま捨てられた紙も多かったと思う。
それでよかった。
捨てられても、また次の週に刷る。
わたしの手元には、一枚も残らない。
残すつもりも無かった。
書いたことは、書いた週のうちに終わる。
次の週には、次のことを書く。
三十五年、そうやって書いてきた。
第二章 何を書いたか
何を書いたかは、ほとんど覚えていない。
行事の予定と、持ち物と、ちょっとした話。
話は、その週に思ったことを書いた。
部活で負けた子のことや、雨の日の廊下のことや、給食の残りのこと。
思ったことを、思ったまま書いた。
練ったものではない。
水曜の夜に、台所のテーブルで一時間で書いた。
木曜の朝に刷って、帰りに配った。
配ったあとは、忘れた。
忘れてよかった。
忘れないと、次の週が書けない。
妻は、一度だけ言ったことがある。
あなた、自分の書いたもの、一枚もとってないのね。
わたしは、とってない、と答えた。
原紙は捨てるものだ。
刷ったほうは、生徒のものだ。
わたしのものは、どこにも無い。
それでいいと思っていた。
書いた人間が持っていても、しかたがない。
鉄筆で原紙に字を書くと、指に跡がつく。
水曜の夜は、中指の横が赤くなった。
その跡も、次の朝には消えていた。
書いたものは、手元にも、指にも、残らなかった。
第三章 三十八年目の一枚
この春、知らない番号から電話があった。
三十八年前の教え子だった。
いま五十一で、隣の県で小学校の教頭をしているという。
会って話がしたい、と言われた。
駅前の喫茶店で会った。
顔を見ても、すぐには思い出せなかった。
名前を聞いて、やっと少し思い出した。
静かな子だった。
授業中に手を挙げたことが、たぶん一度も無い。
当てると、少し考えてから、短く答えた。
答えは、いつも合っていた。
その人は、鞄からクリアファイルを出した。
中に、わら半紙が一枚入っていた。
茶色くなって、角が丸くなっていた。
謄写版の字だった。
インクがかすれて、ところどころ字が欠けていた。
わたしの字だった。
学級通信だった。
先生、これ、覚えてますか、と聞かれた。
覚えていなかった。
読んで、それでも思い出せなかった。
字は確かにわたしの字だった。
鉄筆の癖で、はねるところが少し長い。
自分の字なのに、自分が書いた覚えが無い。
他人の書いたものを読んでいるようだった。
そこには、二学期の終わりの話が書いてあった。
黙っているのは、何も思っていないということではない。
黙っている人の中には、言わないことが、たくさん入っている。
そういう人の、入っているものを、急いで出させなくていい。
そんなことが、短い文でいくつか書いてあった。
第四章 写しのほうが
その人は言った。
これを読んで、黙っていてもいいんだと思いました。
三十八年、机の引き出しに入れていました。
教員になってから、黙っている子に会うたびに、これを思い出しました。
自分のクラスの通信に、同じことを書いたこともあります。
先生の言葉だと書いて、書き写しました。
わたしは、何も言えなかった。
書いた本人は、覚えていなかった。
原紙は、刷った次の日に捨てた。
わたしの手元には、何も残っていない。
けれど、刷った一枚は、三十八年、その人の引き出しにあった。
その人が書き写して、その人のクラスの子にも配られた。
その子たちのうちの誰かが、また持っているかもしれない。
その人は、教頭になったいまも、ときどき、あの文を若い先生に見せるという。
見せると、写真に撮っていく先生がいる、と言った。
わたしの知らないところで、あの文は、また写されている。
原紙は、たった一枚だった。
写しは、四十枚刷った。
その一枚が、三十八年かけて、わたしの知らないところまで行った。
原本よりも、写しのほうが遠くまで届いていた。
わたしは、原本を持っている人間のつもりでいた。
持っていなかった。
原本は、刷った瞬間に、もう要らなくなっていた。
第五章 手元に無いもの
その人と別れて、家まで歩いた。
わたしは三十五年、書いたものを一枚も残さなかった。
残さなくていいと思っていた。
書いた人間が持っていても、しかたがない、と。
それは、半分当たっていた。
書いた人間が持っていても、しかたがない。
持っていても、わたしは読み返さなかっただろう。
読み返したのは、受け取った人のほうだ。
三十八年、読み返したのは、あの人だ。
原本は、書いた人のためにある。
写しは、受け取った人のためにある。
書いた人は、書いたら忘れる。
受け取った人は、要るときに出してくる。
わたしが忘れていたから、あの一枚は、あの人のものになった。
覚えていたら、わたしの言葉のままだった。
忘れたから、あの人の言葉になった。
あの人のクラスの通信には、先生の言葉、と書いてあったそうだ。
けれど、それを読んだ子にとっては、あの人の言葉だ。
写しは、渡るたびに、渡った人のものになる。
原紙には、わたしの字が逆さに刻まれていた。
逆さの字は、誰にも読めない。
読めるのは、刷って、紙に移った字だけだ。
書いた人の手元にあるものは、はじめから、誰にも読めない形をしていた。
エピローグ
その人は、クリアファイルごと、あの一枚をわたしにくれようとした。
わたしは、受け取らなかった。
それは、あなたのものです、と言った。
わたしの手元に戻っても、引き出しに入れるだけです。
あなたの引き出しにあるほうが、ちゃんと使われる。
その人は、少し笑って、ファイルを鞄に戻した。
帰ってから、妻にその話をした。
妻は、一枚もとってないの、やっぱり正しかったのね、と言った。
正しかったかどうかは分からない。
分かるのは、手元に無いものが、よそで生きていたということだけだ。
いまは、書くことは何もしていない。
鉄筆も、もう手元に無い。
通信も無い。
ときどき、町内の回覧板に、短い文を頼まれる。
頼まれると、書く。
水曜の夜に、台所のテーブルで書く。
書いたら、回覧板にはさんで、隣に回す。
原本はとっておかない。
とっておかないほうが、回っていく気がする。
回ったものが、どこへ行くのかは知らない。
知らなくていい。
写しは、書いた人の知らないところで、要る人のところに着く。
あなたの魂のテーマに気づく場所