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母の字

原本は無く、写しだけ

母の字

朗読で聴く

第一章 ノート

六十六になった。

夫は四年前に七十で死んだ。

娘の美和は三十九で、電車で一時間の町に住んでいる。

台所の引き出しに、ノートが一冊ある。

母の字で、料理の作り方が書いてある。

煮物、酢の物、正月の黒豆、法事の白和え。

母は十二年前に八十五で死んだ。

ノートは、そのときもらった。

表紙はとれかけていて、紙は茶色くなっている。

ところどころ、醤油の染みがある。

わたしは四十年、このノートの字を見ながら作ってきた。

黒豆は、いまでもノートを開いてから煮る。

開かなくても作れるのに、開く。

開くと、落ち着く。

ノートのいちばん最初のページに、母の字で書いてある。

おばあちゃんの味、書き写し。

書き写し、とある。

母は、何でも書き写す人だった。

新聞の料理欄も、近所の人に聞いた漬物のやり方も、みんなこのノートに書いた。

書いたものの横には、誰から聞いたかが小さく書いてある。

山田さんの奥さん、とか、新聞、とか。

黒豆のページの横には、何も書いていない。

書いていないのは、最初のページに、もう書いてあるからだ。

母は、自分の母から聞いた作り方を、ここに書き写した。

第二章 写しの写し

わたしは、ずっと思っていた。

わたしの黒豆は、写しの写しだ。

祖母の味を母が書き写して、それをわたしが見て作っている。

二回写せば、何かが落ちる。

母の字は、祖母の言ったことを全部は書いていないはずだ。

書けなかったこともあるはずだ。

火の加減とか、手の感じとか。

だから、わたしの黒豆は、本物には届かないと思っていた。

本物は、祖母の台所にあった。

わたしは、それを知らない。

祖母は、わたしが三つのときに死んだ。

味を覚えていない。

覚えていないものと比べて、いつも足りない気がしていた。

正月に黒豆を出すと、夫はうまいと言った。

美和も、おいしいと言った。

わたしは、そう、とだけ言った。

おばあちゃんのは、もっとおいしかったと思う、と一度だけ言ったことがある。

食べたこともないのに、そう言った。

美和は、そうなの、と言っただけだった。

言ったあとで、少し後悔した。

美和の前で、わたしの黒豆を小さくする理由は無かった。

小さくしたのは、わたしが自分で勝手に比べていたからだ。

比べる相手は、いつも、見たこともない台所だった。

第三章 伯母の話

去年の秋、母の姉の葬式があった。

伯母は九十四だった。

式のあとで、いとこと話した。

いとこは、わたしより八つ年上で、祖母の家の近くで育った人だ。

黒豆の話になった。

あなた、まだおばあちゃんの黒豆を作ってるの、と聞かれた。

母の書き写したノートで作っている、と答えた。

いとこは、少し笑った。

おばあちゃんは、作り方なんか書いてなかったよ、と言った。

毎年、ちょっとずつ違ったの。

砂糖が多い年もあったし、少ない年もあった。

鍋も違ったし、豆も違った。

決まった作り方なんて、無かったんじゃないかな。

あなたのお母さんは、ある年のを、そのまま書いたのよ。

ある年の一回だけを。

どうして分かるの、と聞いた。

いとこは、おばあちゃんの台所によくいたから、と言った。

黒豆を煮る日は、朝から鍋の番をさせられたの。

おばあちゃんは、味見をして、そのたびに何か足したり、火を弱くしたりしてた。

毎年、同じことはしてなかった。

あなたのお母さんが書いた年は、たぶん、砂糖の多い年ね。

あの人、甘いのが好きだったから。

わたしは、しばらく黙っていた。

原本があると思っていた。

母の字の向こうに、正しい一つがあると思っていた。

無かった。

祖母の台所には、毎年ちがう黒豆があっただけだった。

第四章 ある年の一回

帰りの電車で、ノートのことを考えた。

母は、ある年の祖母の黒豆を、書き写した。

書き写したから、その年の一回が残った。

書き写さなければ、何も残らなかった。

祖母の毎年は、祖母と一緒に消えた。

残ったのは、母の書いた一回だけだ。

だとしたら、母の字が、原本だ。

写しだと思っていたものが、いちばん古い形だった。

その前には、何も無い。

書いていないものは、残らない。

家に帰って、ノートを開いた。

書き写し、の四文字をもう一度見た。

母は、写しだと書いた。

写しだと書いたのは、母が正直だったからだと思う。

自分の味ではない、と言いたかったのだと思う。

けれど、書いたのは母だ。

どの年のを書くか選んだのも、母だ。

砂糖の量を数字にしたのも、母だ。

それは、写しというより、母の一回だった。

母が書いた数字の横に、小さく線が引いてあるところがある。

砂糖、大さじ八、の八に線が引いてあって、横に九と書いてある。

最初は八と書いて、あとで九に直したのだ。

祖母が九と言ったのか、母が九にしたのかは、分からない。

分からないが、九にしたのは母の手だ。

写しの中に、母の手が入っていた。

第五章 足りないもの

わたしは四十年、足りないと思って作ってきた。

祖母の味に届かないと思って作ってきた。

届かないのは、届く先が無かったからだ。

無いものに届こうとしていた。

無いものと比べれば、いつも足りない。

足りないと思いながら、毎年、同じ手順で煮てきた。

夫と美和は、それを食べてきた。

二人にとっては、わたしの黒豆が最初の黒豆だ。

二人は、祖母の味を知らない。

母の味も、少ししか知らない。

知っているのは、わたしの台所の黒豆だけだ。

わたしが写しだと思っていたものが、二人には原本だった。

原本というのは、たぶん、いちばん最初に食べたもののことだ。

祖母の毎年を、母は知っていた。

母の一回を、わたしは知っていた。

わたしの四十年を、美和は知っている。

どれも、その人にとっての最初だ。

比べる先は、どこにも無い。

無いと分かってから、黒豆を煮るのが、少し楽になった。

足りない、と思わなくてよくなった。

足りないと思わないで煮ると、手が少し自由になる。

去年は、砂糖をいつもより少し減らした。

減らしても、誰も何も言わなかった。

エピローグ

この正月、美和が台所に来た。

黒豆の作り方を教えて、と言った。

わたしは、ノートを出しかけて、やめた。

新しいノートを一冊、出した。

母の字を見ながら、わたしの字で書き写した。

砂糖の量は、わたしがいつも入れている量にした。

母の数字より、少し少ない。

四十年のうちに、そうなった。

最初のページに、書いた。

母の味、書き写し。

そう書いて、少し考えてから、横に一言足した。

ただし、わたしの一回。

美和は、ノートを受け取って、最初のページを読んで笑った。

これ、書き写しなの、と聞いた。

写しよ、と答えた。

でも、原本は無いの。

写ししか無いのよ。

美和は、ふうん、と言って、ノートを鞄に入れた。

来年から、美和の台所で、美和の一回が煮られる。

それも、たぶん少しずつ変わっていく。

変わったものを、また誰かが書き写す。

写しは、それでいいのだと思う。

元が無いから、写しが続いていく。

母のノートは、台所の引き出しに戻した。

黒豆を煮るときは、まだ開く。

開くと、落ち着く。

開いて見ているのは、写しではなく、母の字だ。

ソウルミッション358

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