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悪くない

ぼかした線が一本も無いこと

悪くない

朗読で聴く

第一章 公差

六十九になった。

小さな町の機械工場で、四十一年、旋盤を回していた。

四年前にやめた。

妻のマーガレットは七年前に六十三で死んだ。

娘のケイトは四十一で、州の反対側の町で建物の図面を引いている。

旋盤の仕事は、公差の仕事だ。

図面に、ここは何ミリ、上下にどれだけまで、と書いてある。

その幅の中に入れば合格で、外れれば屑になる。

百分の一ミリで、屑になる。

だから、こちらの言葉も短くなった。

合っている。外れている。

工場ではそれで足りた。

足りないのは、家のほうだった。

家では、どう言えばいいのか、分からなかった。

分からないので、ほとんど言わなかった。

言うときは、小さく言った。

小さく言えば、外れても屑にはならないと思っていた。

工場の親方は、口数の少ない人だった。

わたしの削った部品を手に取って、光にかざして、黙って箱に入れる。

入れたら合格で、脇に置いたら屑だ。

ほめられたことは、一度も無い。

箱に入れてもらえれば、それで十分だった。

十年たって、親方が一度だけ言った。

おまえの面は、きれいだ。

その一言を、わたしは四十年、覚えていた。

覚えていたのに、自分が言う側になったとき、同じことをしなかった。

第二章 悪くない

ケイトが十一のとき、学校で描いた家の絵を見せに来た。

物差しで線を引いた、まっすぐな家だった。

窓の数が、左右で同じだった。

わたしは、絵の端に鉛筆で書いた。

悪くない。

それだけ書いて、返した。

ほめたつもりだった。

けれど、大きくほめるのは照れくさかった。

だから、ぼかして書いた。

とてもいい、ではなく、悪くない。

悪くないなら、外れても言いわけが立つ。

娘に渡すには、小さすぎる言葉だと分かっていた。

分かっていて、それしか書かなかった。

マーガレットはよくほめる人だった。

ほめるのは、向こうに任せておけばいいと思っていた。

わたしは、悪くない、くらいでいい。

四十年、そうやって並んでいた。

ケイトが大きくなるにつれて、見せに来るものは減っていった。

成績表は、マーガレットに見せていた。

大学の合格の知らせも、マーガレットが電話で受けた。

わたしは、夕飯のときに聞いた。

そうか、とだけ言った。

そうか、も、ぼかした言葉だった。

うれしかったのに、うれしいと言うと、何かが外れる気がした。

何が外れるのかは、自分でも分からなかった。

第三章 額

去年の春、ケイトの家に初めて泊まった。

州の反対側まで、車で四時間かかる。

行こうと思えば、いつでも行けた。

行かなかったのは、行っても話すことが無いと思っていたからだ。

仕事部屋の壁に、額が一つ掛かっていた。

十一のときの、家の絵だった。

端に、わたしの鉛筆の字があった。

悪くない。

三十年たって、字は少し薄くなっていた。

けれど、読めた。

ケイトが、コーヒーを持ってきて言った。

それ、父さんが、わたしにくれた、ただ一つのやつ。

図面の仕事を選んだのは、たぶんそれのせい。

わたしは、何と言えばいいのか分からなかった。

あんなもの、と言いかけて、やめた。

あんなもの、と言えば、ケイトの三十年が小さくなる。

小さくするのは、わたしが決めていいことではない。

額の横に、ケイトの引いた図面が何枚も留めてあった。

どれも、線がまっすぐだった。

壁の厚みも、窓の幅も、数字で書いてあった。

迷った線は、一本も無かった。

あの子は、線を引く仕事をしている。

引いた線が、そのまま建物になる仕事だ。

ぼかした線では、壁は立たない。

第四章 ぼかしたつもり

その晩、客間で眠れなかった。

わたしは、ぼかして書いた。

とてもいい、と書くのが照れくさくて、悪くない、と書いた。

小さくしておけば、届いても軽いと思っていた。

けれど、ケイトの額の中で、あの字は軽くなかった。

ぼけてもいなかった。

一本の線として、はっきりそこにあった。

ぼかしは、わたしの側にしか無かった。

照れも、言いわけも、わたしの中にしか無かった。

紙に残ったのは、鉛筆の字だけだ。

字には、照れは写らない。

旋盤と同じだった。

削ったところは、削ったとおりに残る。

迷いながら削っても、残るのは寸法だけだ。

迷いは、屑にも製品にも写らない。

親方の一言を、また思い出した。

おまえの面は、きれいだ。

親方が、どんな顔で言ったのかは覚えていない。

照れていたのか、いつもの顔だったのか、分からない。

覚えているのは、言葉だけだ。

言葉だけが、四十年、ぼけずに残っている。

わたしがケイトに書いた字も、同じ残り方をしていた。

第五章 一本だけ

明け方、もう一つのことに気づいた。

ケイトが額に入れていたのは、一枚だけだった。

ただ一つのやつ、と言った。

ほかに無かったからだ。

四十年、わたしがケイトに渡したほめ言葉は、あの一本しか無かった。

ぼかしたから一本になったのではない。

ぼかしたつもりで、一本しか引かなかった。

その一本が、くっきり届いた。

くっきり届いたから、額になった。

もっと引いておけば、額は一枚では足りなかったかもしれない。

あるいは、どれも額にならなかったかもしれない。

どちらかは、もう分からない。

分かるのは、引いた線はどれも届く、ということだけだ。

ぼかしたつもりの線も、届く。

届いたときには、ぼけは一つも残っていない。

だとしたら、小さく言う理由は、はじめから無かった。

マーガレットが生きていたころ、一度だけ言われたことがある。

あなたは、ほめるのを惜しんでいるんじゃない。

ほめて、外れるのがこわいのよ。

わたしは、何が外れるんだ、と聞いた。

マーガレットは、あなたの顔よ、と言って笑った。

そのときは、意味が分からなかった。

いまは、少し分かる。

大きくほめて、娘が喜ばなかったら、わたしの顔が屑になる。

だから、外れても困らない大きさで言っていた。

守っていたのは、娘ではなく、わたしの顔だった。

エピローグ

帰る朝、玄関で、ケイトに紙を一枚渡した。

前の晩に、客間の机で書いたものだ。

鉛筆ではなく、ペンで書いた。

おまえの図面を見た。とてもいい。

それだけ書いた。

ケイトは、紙を読んで、しばらく黙っていた。

それから、これも額に入れる、と言った。

わたしは、入れなくていい、と言いかけて、やめた。

入れるかどうかは、受け取った側が決めることだ。

ケイトは、紙を額の横の図面の上に留めた。

ペンの字は、鉛筆の字よりも濃かった。

並べると、三十年ぶんの差が、字の濃さに出ていた。

薄いほうも、濃いほうも、どちらもはっきり読めた。

車で家に戻るまで、四時間かかった。

そのあいだ、ずっと考えていた。

ラジオはつけなかった。

道はまっすぐで、ほとんど曲がらなかった。

まっすぐな道を、同じ速さで走った。

百分の一ミリで屑になる仕事を、四十一年やった。

寸法は、いつもはっきり言った。

言葉だけ、ぼかしていた。

ぼかしても、ぼけないのに。

いまは、短く、はっきり言うようにしている。

とてもいい、と言うのは、まだ照れくさい。

照れくさいまま、言う。

照れは、どうせ届かない。

届くのは、線だけだ。

ソウルミッション358

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