一字も違わずに
ぼかした線が一本も無いこと

朗読で聴く
第一章 最初の正月
七十になった。
夫は三年前に七十四で死んだ。
息子の健一は四十八で、同じ町の、歩いて行ける近さに住んでいる。
嫁の由美さんは四十六だ。
孫が二人いる。
二十五年前、由美さんが初めてうちの正月に来た。
煮しめを作ってきてくれた。
自分の家の味です、と言って重箱を出した。
わたしは、ひと口食べて言った。
あら、うちの味とは違うのね。
笑って言った。
そのあと、でもおいしいわよ、と足した。
足したのは覚えている。
きつく言ったつもりは無かった。
違うのは本当のことで、それを軽く言っただけだった。
軽く言えば、ただの世間話になると思っていた。
由美さんは、そうですか、と言って笑った。
その年の正月は、ふつうに終わった。
うちの煮しめは、母から習ったものだ。
醤油が濃くて、砂糖が多い。
由美さんのは、薄い色で、だしの味がした。
どちらがいいという話ではない。
ただ、四十年同じ味を作ってきた舌には、違いがすぐに分かった。
分かったことを、そのまま口に出した。
口に出すときに、少し笑った。
笑えば、軽くなると思っていた。
第二章 二十五年のふつう
それから二十五年、由美さんは一度も怒らなかった。
盆にも正月にも来た。
夫が倒れたときは、毎日病院に顔を出してくれた。
葬式の段取りも、ほとんど由美さんがやった。
わたしは、あの正月の一言を、とうに忘れていた。
忘れていたというより、あれが一言だったと思っていなかった。
ただの世間話だった。
世間話は、言った次の日には消えている。
消えているものは、思い出す理由が無い。
由美さんのほうも、忘れていると思っていた。
あれから二十五年、何も無かったのだから。
何も無かったのは、何も残っていないからだと思っていた。
煮しめは、あの年から、わたしが作るようになった。
由美さんは、作ってこなくなった。
作ってこないのを、手間が省けてよかったのだと思っていた。
正月の重箱は、毎年わたしが詰めた。
由美さんは、取り皿を並べて、お茶をいれてくれた。
台所には、ほとんど入らなかった。
遠慮しているのだと思っていた。
嫁というのは、そういうものだと思っていた。
わたしも若いころ、夫の母の台所には入らなかった。
入らなかった理由を、わたしは覚えている。
入るなと言われたのではない。
一度、味付けを直されたからだ。
その一度を、わたしは五十年、覚えていた。
第三章 台所で
この秋、孫の上の子が結婚することになった。
由美さんが、相手の家の話をしにうちへ来た。
向こうのお母さんが、料理の上手な人らしい。
わたしは、それなら由美さんも気をつかうわね、と言った。
由美さんは、湯のみを両手で持ったまま言った。
お母さん、わたし、あの正月に言われたこと、覚えてます。
あら、うちの味とは違うのね。
一字も違わずに言った。
笑ってはいなかった。
でもおいしいわよ、は付いていなかった。
わたしは、何のことか、すぐには分からなかった。
分かってから、顔が熱くなった。
あれを、覚えていたの。
覚えてます、と由美さんは言った。
あの日から、煮しめは作っていません。
第四章 止めていた
あの日から、とわたしは繰り返した。
はい、あの日から、と由美さんは言った。
作ると、また比べられる気がしたんです。
比べられるのがこわかったのではなくて、比べられたあとの自分の顔を、健一さんに見せたくなかった。
だから、作らないことにしました。
作らないほうが、みんなが楽だったんです。
わたしは、ごめんなさいと言いかけた。
由美さんは、首を振った。
文句を言いに来たんじゃないんです、と言った。
わたし、あれを、誰にも言っていません。
健一さんにも言っていません。
子どもたちにも言っていません。
言ったら、健一さんとお母さんのあいだが、少し変わるでしょう。
だから、わたしのところで止めておきました。
二十五年、止めておきました。
今日言ったのは、今度はわたしが、向こうのお母さんに言われる側だからです。
言われたら、わたしも止めます。
止め方を、わたしは知っています。
そう言って、由美さんは湯のみを置いた。
わたしは、何も言えなかった。
笑って言ったつもりだった。
でもおいしい、と足したつもりだった。
足したものは、向こうに一つも届いていなかった。
届いたのは、違うのね、のいちぎょうだけだった。
そのいちぎょうに、ぼけは一つも無かった。
夫の母に味付けを直された日のことを、わたしは思い出していた。
直されたとき、義母は何か付け足していた気がする。
何と付け足したのかは、覚えていない。
覚えているのは、直された、ということだけだ。
五十年たっても、それだけは、はっきりしている。
同じことを、わたしは由美さんにしていた。
されたときには分かっていたのに、するときには分からなかった。
第五章 ぼかしていたのは
由美さんが帰ったあと、台所に座っていた。
二十五年、何も無かったのは、何も残っていないからではなかった。
残ったものを、由美さんが持っていたからだ。
持ったまま、外に出さなかったからだ。
わたしは、ぼかしたつもりでいた。
笑って、足して、軽くしたつもりでいた。
けれど、ぼかしはわたしの側にしか無かった。
向こうに届いたひとことは、くっきりしていた。
くっきりしたまま、由美さんの中にあった。
ぼかしてくれていたのは、由美さんのほうだった。
家の中に広がらないように、自分の中で止めていた。
止めているあいだ、盆にも正月にも来ていた。
夫の病院にも、毎日来ていた。
わたしは、それを、ふつうだと思っていた。
ふつうではなかった。
ふつうに見えるように、由美さんが二十五年、支えていた。
わたしは、義母の一言を、夫に話したことがある。
若いころ、何度も話した。
話すたびに、夫は困った顔をした。
母とのあいだに、少しずつ何かが挟まっていったのが分かった。
由美さんは、それをしなかった。
しなかったから、健一とわたしのあいだには、何も挟まっていない。
挟まっていないのを、わたしは自分の手柄だと思っていた。
エピローグ
次の週、由美さんの家に行った。
玄関で、はっきり言った。
あの正月は、ごめんなさい。
笑わなかった。
何も足さなかった。
由美さんは、少し黙ってから、はい、と言った。
それから、今年の正月、煮しめを作って持っていきます、と言った。
わたしは、お願いします、と言った。
それだけで、玄関を出た。
帰り道、足が少し軽かった。
軽いのは、言えたからではないと思う。
言ったことが、そのまま向こうに着いたのが分かったからだ。
あのいちぎょうは、もう消えない。
二十五年ぶん、由美さんの中にあった。
消えないまま、その横に、わたしの言ったひとことが並ぶ。
今度のいちぎょうは、足さないで言った。
足さないで言うのは、こわかった。
こわいのは、そのまま届くからだ。
そのまま届くと分かっていて言う言葉は、少ない。
少なくていいのだと思う。
正月には、二つの煮しめが並ぶ。
どちらの味とも、わたしは言わないでおく。
言わないでおくのは、ぼかすのとは違う。
刻まない、ということだ。
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