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笑って言った

ぼかした線が一本も無いこと

笑って言った

朗読で聴く

第一章 判子屋

六十七になった。

駅前の商店街で、判子屋を四十二年やっている。

父の代からの店だ。

妻は五年前に六十一で死んだ。

息子の達也は五十二で、隣の市で小さな食堂をやっている。

判子は、刻んで作る。

印材に、字を逆さに書いて、そのとおりに彫る。

彫ったところが白く抜け、残したところが赤く出る。

下書きは鉛筆で書く。

鉛筆の線は、やわらかい。

消しゴムで消せるし、指でこすればぼける。

下書きのうちは、何度でも直せる。

けれど、紙に押したときに出るのは、刻んだ線だけだ。

下書きの鉛筆は、一本も写らない。

迷った跡も、写らない。

四十二年、客にそう言ってきた。

押したら、もう直りません。

だから、刻む前にちゃんと見てください。

客に言うのは、簡単だった。

実印を作りに来る人は、たいてい迷う。

書体はどれにするか、名前だけにするか、名字も入れるか。

迷っているうちは、下書きを何枚でも書く。

迷いが終わったら、一度だけ刻む。

刻むときには、もう迷わない。

迷ったまま刻むと、線がふらつく。

ふらついた線も、押せば、そのとおりに出る。

判子は、刻んだ人の迷いまでは直してくれない。

第二章 三十年前の台所

達也が二十二のとき、大学をやめると言いに来た。

料理の店で働きたい、と言った。

台所のテーブルで、向かい合っていた。

妻は流しの前に立っていた。

わたしは、笑って言った。

まあ、お前には無理だろう。

好きにしろ。

笑って言ったのは、覚えている。

まあ、と頭に付けたのも、覚えている。

きつく言うつもりは無かった。

反対だったが、止める気も無かった。

だから、やわらかく言った。

やわらかく言えば、半分は冗談になると思っていた。

冗談にしておけば、あとで引っ込められる。

達也は、何も言わずに帰った。

妻は、流しの前で、背中を向けたまま何も言わなかった。

その晩、寝る前に、一度だけ言われた。

あれは、きつかったよ。

笑って言っただろう、とわたしは答えた。

笑っていたのは、あなたの顔だけ、と妻は言った。

あの子には、顔は持って帰れないから。

わたしは、そうか、と言って、それきりにした。

それきりにしたのは、わたしのほうだ。

次の春から、隣の市の料理屋で働き始めた。

十年して、自分の店を出した。

わたしは、一度も食べに行かなかった。

店を出したと聞いたとき、祝いの判子を一本彫った。

店の名前を刻んだ、角の判子だ。

妻に持っていってもらった。

自分では、持っていかなかった。

あとで聞くと、達也はそれを、いまも伝票に押しているらしい。

押すたびに、わたしの刻んだ線が出る。

そのことを、わたしは十年、考えないようにしていた。

行かなかったのは、忙しかったからではない。

行けば、あの台所の話になる気がした。

ならないように、行かなかった。

第三章 一字も違わない

去年の秋、妻の法事のあとで、初めて達也の店に行った。

七人で満席になる店だった。

達也は、何も言わずに定食を出した。

焼いた魚と、煮物と、味噌汁だった。

煮物の大根に、きちんと面取りがしてあった。

角が、どれも同じ幅で落としてあった。

食べた。

うまかった。

味のことは、よく分からない。

けれど、仕事の丁寧さは分かる。

四十二年、字の角を見てきた目で見ても、ふらついた角が一つも無かった。

うまいと言おうとして、言えなかった。

食べ終わるころ、達也がカウンターの向こうで言った。

まあ、お前には無理だろう。好きにしろ。

わたしの声の調子ではなかった。

笑ってもいなかった。

字だけが、そのまま出てきた。

一字も違わなかった。

覚えてたのか、と聞いた。

忘れたことは無い、と達也は言った。

三十年、毎朝、仕込みのときに思い出した。

思い出して、包丁を持った。

あれが無かったら、たぶん続いていない。

だから恨んではいない。

ただ、あれは、あのとおりの言葉だった。

そう言って、皿を下げた。

第四章 下書きは写らない

帰りの電車で、ずっと考えていた。

わたしは、笑って言った。

まあ、と付けた。

それで、やわらかくしたつもりだった。

けれど達也に残っていたのは、笑いでも、まあ、でもない。

無理だろう、のいちぎょうだった。

笑いは、わたしの顔の上にしか無かった。

まあ、は、わたしの口の中で消えた。

向こうに届いたのは、刻んだところだけだ。

判子と同じだった。

下書きの鉛筆は、押しても写らない。

迷った跡も、ぼかした跡も、写らない。

紙に出るのは、刻んだ線だけで、その線にはぼけが一つも無い。

四十二年、客にそう言ってきたのに、自分の口がそうだとは思っていなかった。

ぼかしたつもりでいたのは、わたしのほうだけだった。

ぼかしは、言った側の中にしか無い。

出ていった言葉は、どれもふちがくっきりしている。

くっきりしているから、三十年もつ。

妻の言ったことを、そこで思い出した。

笑っていたのは、あなたの顔だけ。

顔は、持って帰れない。

持って帰れるのは、字だけだ。

妻は、三十年前に、それを知っていた。

知っていて、一度だけ言って、あとは黙っていた。

黙っていたのは、わたしが、そうか、で終わらせたからだ。

第五章 刻む前に

店に戻って、印材の箱を開けた。

客の判子を彫るとき、わたしは何度も下書きを見る。

字の形を、ルーペで確かめる。

刻んでしまえば直らないからだ。

口のほうは、見なかった。

下書きのまま、刻んでいた。

刻んでいるつもりが無いまま、刻んでいた。

直らないものを、直るつもりで出していた。

三十年前のいちぎょうは、もう直らない。

直らないのは、達也がそのまま持っているからだ。

持っていて、それで包丁を握ってきた。

わたしが引っ込めていいものではない。

引っ込めるかわりに、もう一本、刻むことはできる。

下書きではなく、はじめから刻むつもりで口に出す、いちぎょうだ。

それを考えるのに、ひと月かかった。

短いいちぎょうなのに、ひと月かかった。

長い言葉なら、いくらでも思いついた。

あのときは悪かった、とか、よくやった、とか。

どれも、書いてみると、まあ、が隠れていた。

言いわけが、字のあいだに挟まっていた。

挟まったものは、どうせ向こうには写らない。

写らないものを入れても、重くなるのはこちらの口だけだ。

だから、削った。

削っていくと、最後に二文字だけ残った。

エピローグ

正月に、もう一度、店に行った。

同じ定食を頼んだ。

食べ終わってから、箸を置いて言った。

うまい。

笑わなかった。

まあ、も付けなかった。

顔を上げたまま、それだけ言った。

達也は、少し黙ってから、うん、と言った。

それだけだった。

三十年前のいちぎょうは、消えていない。

消えないまま、その横に、もういちぎょうある。

二行並んで、どちらもふちがはっきりしている。

やわらかく言うのは、やさしいことだと思っていた。

そうではなかった。

やわらかく言うのは、言った自分が逃げ道を持っておくことだった。

逃げ道は、相手には届かない。

届くのは、刻んだ線だけだ。

だから、刻む前に見る。

判子と同じように、口でも、刻む前に見る。

六十七で、やっとそれを始めた。

ソウルミッション358

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