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箱を一つ

線を一本も引いていないこと

箱を一つ

朗読で聴く

第一章 怒らない人

六十六になった。

町の図書館で三十一年働いている。

司書ではない。受付と、郷土資料の整理だ。

夫のカールは八年前に六十二で死んだ。

娘のリンジーは四十で、四時間離れた町にいる。

わたしは、怒らない人だと思われている。

町の人にも、図書館の人にも、そう言われる。

あの人は怒らないから、と言われる。

三十一年、一度も怒ったことがない。

一度もだ。

声を大きくしたことがない。

嫌だと言ったことも、たぶん無い。

怒らないと決めたわけではない。

決めた日は無い。

決めていたら、覚えている。

覚えがないのだから、決めていない。

一度も怒らなかった。

怒らなかったというより、怒る形が出てこなかった。

出てこないものは、無いのと同じに見える。

それだけだ。

それだけのことが、三十一年で形になった。

形になると、町のほうがそれを使い始める。

もめごとがあると、わたしが間に入れられる。

あの人なら怒らないから、という理由でだ。

間に入って、両方の話を聞く。

聞いて、うなずく。

それで収まることもある。

収まらないときは、こちらが黙って持ち帰る。

持ち帰ったものが、どこへ行くのかは考えたことがない。

どこにも行かない。

こちらの中にたまる。

第二章 箱の話

去年の秋、予算が削られた。

図書館の建物の半分を、町の事務所にすることになった。

わたしのいた奥の部屋が、そこに入っていた。

郷土資料の部屋だ。

三十一年、わたしが一人で整理してきた。

町の古い写真、農家の記録、学校の名簿、教会の帳面。

箱で四十二ある。

中身は全部、わたしが番号を付けた。

どの箱に何が入っているかを、全部言える。

言えるのは、たぶんわたしだけだ。

館長のグレッグが、処分すると言った。

全部ではない、大事なものは残す、と言った。

大事なものをどう選ぶのかは、言わなかった。

聞けばよかった。

聞くのも、言い方のうちだ。

聞く言い方も、持っていなかった。

わたしは、分かりました、と言った。

分かっていなかった。

分かっていないのに、そう言った。

いつもそう言っているからだ。

分かりました、は、三十一年でいちばん多く言った言葉だと思う。

数えたことはない。

数えなくても分かる。

口が勝手に出す言葉は、たいてい一つか二つしかない。

第三章 言い方を持っていない

その晩、家で考えた。

反対だと思っている。

思っているのに、言えなかった。

言えなかったのは、怖かったからではない。

グレッグは怖い人ではない。

三十一年、一度もけんかをしていない。

言えなかったのは、言い方を持っていないからだ。

怒った言い方を、三十一年使っていない。

使っていないものは、出てこない。

筋肉と同じだ。

使わない筋肉は、いざというときに動かない。

三十一年、怒る筋肉を使っていない。

使う場面が無かったのではない。

場面はあった。毎年あった。

あるたびに、別の言い方で済ませた。

鏡の前で、言ってみた。

それは困ります。

声が小さかった。

もう一度、大きく言ってみた。

自分の声ではないみたいだった。

言葉は知っている。

知っているのに、体が出し方を知らない。

途中でやめた。

やめたあと、台所に座っていた。

カールが生きていたら、何か言っただろうかと思った。

カールも静かな人だった。

二人とも静かだったので、家に言い合いが無かった。

無いのがいいことだと、ずっと思っていた。

いまは、少し違うことを思っている。

使わない言い方は、家の中でも減っていく。

第四章 宣言してみた

次の週、リンジーに電話で話した。

お母さん、怒らないから、とリンジーは言った。

そのとおりだ、と答えた。

でも今度は言うつもり、と言った。

言ってから、自分でも少し驚いた。

宣言したのは、たぶん初めてだ。

リンジーは、いいと思う、と言った。

それだけで、電話は終わった。

宣言しても、何も起きなかった。

次の日、図書館に行った。

行く車の中で、言う文を考えた。

三つ考えて、どれも言わなかった。

グレッグはいつもどおりだった。

わたしもいつもどおりだった。

その週、箱は八つ運び出された。

わたしは何も言わなかった。

宣言は、言葉だ。

言葉は、紙に書いた線と同じだ。

こちらの中にはある。

外には、何も無い。

外に出るのは、やったことだけだ。

三十一年、やったことは一つしかない。

分かりました、と言って、そのとおりにすることだ。

その端が、いまのわたしの形になっている。

わたしが引いた線は、一本も無い。

第五章 箱を一つ

十一月のある日、閉めたあとに残った。

残るのは、年に何度かある。

奥の部屋に入って、箱を見た。

三十四箱になっていた。

いちばん下の段に、いちばん古い箱がある。

一九三〇年代の農家の記録だ。

わたしが二十代のときに、初めて整理した箱でもある。

持ち上げた。

重かった。

そのまま、裏口から出て、車に積んだ。

誰にも言わなかった。

鍵をかけて、家に帰った。

台所のテーブルに置いた。

置いてから、手が震えた。

盗んだのだろうか、と思った。

三十一年、整理してきたものだ。

誰のものかは、はっきりしない。

怒っている感じは無かった。

あるのは、やってしまった、という感じだけだ。

その晩は、よく眠れた。

よく眠れたことが、いちばん意外だった。

怒ったのだと思う。

怒った気はしないのに、怒ったことになるらしい。

声を大きくするのが怒ることだと思っていた。

そうではないのかもしれない。

三十一年ぶんの形から、箱一つぶんはみ出しただけだ。

エピローグ

三日後、グレッグに聞かれた。

いちばん古い箱がないけど、どこか分かる。

わたしは、うちにあります、と言った。

声は大きくなかった。

いつもの声だった。

グレッグは、そう、とだけ言った。

それから、少し黙って、こう聞いた。

返してもらえる。

いいえ、と答えた。

いいえ、と言ったのは、三十一年で初めてだ。

言ったあと、何も起きなかった。

グレッグは、分かった、と言って、戻っていった。

次の月、処分の話が止まった。

止まった理由は、聞いていない。

聞かないでおくことにした。

聞くと、また分かりました、と言ってしまう気がする。

わたしのせいかどうかも、分からない。

分からないが、一つだけ確かなことがある。

宣言したときは、何も動かなかった。

箱を一つ運んだときに、動いた。

言葉は、線だ。

こちらが引いても、外には出ない。

やったことだけが、外に出る。

箱は、まだ台所にある。

返す気はない。

開けてもいない。

開ける必要が無いからだ。

中身は知っている。

残りの三十三箱は、図書館にある。

あれを全部うちに運ぶことはできない。

車に入らないし、置く場所も無い。

できないが、一つ運んだことは、消えない。

やったことは、書いたものと違って、消えない。

消えないから、次のときに使える。

次があるかどうかは分からない。

あったときに、もう一度運べばいい。

運べる重さのものを、一つずつだ。

線は、たぶん一生引かない。

引き方を知らないまま、六十六になった。

知らないままでも、端は動く。

ソウルミッション358

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