断ると書いた
線を一本も引いていないこと

朗読で聴く
第一章 三つ書いた
六十八になった。
市役所に四十二年いて、六十で定年になった。
妻は六十五で、去年まで給食の仕事をしていた。
息子が一人、四十で、隣の市にいる。
定年のあと、三年で引き受けたものを数えたことがある。
自治会の会計が二年。
地区の防災の係が一年。
同級生の会の世話役。
法事の受付。
空き家になった親戚の家の片づけ。
夏の草刈りが、毎年三回。
どれも、頼まれて断らなかったものだ。
断らなかったのは、断る理由が無いからだ。
時間はある。
体も、そこそこ動く。
断る理由が無いと、引き受けることになる。
理由が無いと断れない、というのは、こちらの癖だ。
ほかの人は、理由が無くても断っている。
断っている人を見ても、真似ができない。
真似をしようとすると、口が動かない。
六十五の正月に、それをやめることにした。
きっかけは、妻の一言だ。
あなた、家にいる日が月に何日あるの、と聞かれた。
数えたら、四日だった。
四日と言うと、妻は、そう、とだけ言った。
怒られなかった。
怒られなかったのに、その晩は寝つけなかった。
家にいる日が四日だと、妻は前から知っていたと思う。
知っていて、三年黙っていた。
黙っていたのを、こちらは気づかなかった。
第二章 線を引いた
紙に書いた。
台所の引き出しに入っている、白い紙だ。
三つ書いた。
一、これからは断る。
二、引き受けるのは、年に二つまで。
三、決めるのは、その場ではなく、次の日にする。
書いてから、少し気分がよかった。
字は大きく書いた。
大きく書くと、決めた感じがする。
ずっと言えなかったことを、やっと決めた気がした。
妻に見せた。
妻は読んで、いいんじゃない、と言った。
いいんじゃない、と言われて、少し拍子抜けした。
もっと止められるかと思っていた。
紙は引き出しに入れた。
入れたまま、半年たった。
半年のあいだ、紙のことは何度か思い出した。
思い出すのは、たいてい引き受けたあとだ。
引き受ける前に思い出したことは、一度も無い。
前に思い出せば、間に合う。
あとで思い出すのは、間に合わないということだ。
第三章 半年たって、数えた
夏に、思い出して数えてみた。
その半年で、頼まれたのは九回だ。
断ったのは、一回。
一回だけだった。
しかもその一回は、こちらが断ったのではない。
考えさせてくださいと言っているうちに、向こうが別の人に頼んだ。
こちらが断ったことに入れていいのか、分からない。
残りの八回は、全部引き受けている。
九回のうち、本当にやりたかったものは一つある。
同級生の会の世話役だ。
ほかの八つは、どちらでもよかった。
どちらでもいいものを、八つ引き受けている。
三の「次の日にする」も、守れなかった。
その場で、はい、と言っている。
九回のうち七回は、その場だ。
紙は引き出しにある。
書いた文字は消えていない。
消えていないのに、何も変わっていない。
字は残る。
残るものと、効くものは違う。
そのとき、はっきり分かったことがある。
線は、引ける。
紙に書けば、線は引ける。
引いても、形は変わらない。
引けることと、変わることは、別だ。
別なのに、引いたときに変わった気がする。
気がするから、そこで止まる。
止まったまま半年たった。
気がしたぶん、かえって遠のいたのかもしれない。
第四章 形は、やった端でできている
役所にいたころ、図面をよく見た。
建築の許可の仕事が長かったからだ。
図面には線がある。
線で囲って、ここまでが敷地だと決める。
人の形には、それが無い。
紙に書いても、敷地にならない。
人の形は、やったことの端でできている。
去年やったから、今年も頼まれる。
今年もやるから、来年も頼まれる。
端が伸びていく。
線を引いても、端は動かない。
端を動かすには、やることを変えるしかない。
やることを変えるのは、こわい。
変えた次の日から、向こうの顔が変わるからだ。
紙に書くのは、こわくない。
誰の顔も変わらない。
当たり前のことだ。
当たり前なのに、六十五で紙に書いた。
書けば動くと思っていた。
書くほうが、やらないより楽だからだ。
楽なほうを、決断だと思っていた。
図面の線は、引けば効く。
線の内側と外側で、できることが変わるからだ。
効くのは、みんながその線を見ているからだ。
こちらの三つは、こちらしか見ていない。
誰も見ていない線は、線ではない。
紙に書いたものは、ただの字だった。
第五章 腰を痛めた半年
去年の春、腰を痛めた。
畑で無理をして、二か月ほど立っているのがつらかった。
治るまで半年かかった。
その半年、草刈りに出ていない。
防災の集まりにも出ていない。
法事の受付も、別の人がやった。
やめると言っていない。
言わずに、出られなかっただけだ。
秋に体が戻って、出るようになった。
戻って、気づいたことがある。
草刈りの当番表から、こちらの名前が減っていた。
三回だったのが、一回になっていた。
当番表は、公民館の壁に貼ってある。
貼ってあるものが、いつのまにか直っていた。
直した人は、こちらに何も言わない。
誰も言ってこなかった。
減らしたのは、たぶん自治会の誰かだ。
こちらが出られなかった半年を見て、そう直したのだと思う。
紙に三つ書いた半年では、一つも動かなかった。
出られなかった半年で、二つ減った。
書いた半年と、出なかった半年の違いは、一つだけだ。
やったことが、違う。
書いた半年は、いつもどおり出ていた。
出なかった半年は、いつもどおり出なかった。
向こうが見ていたのは、出たか出ないかだ。
紙のことは誰も知らない。
知らないものは、向こうの中で形にならない。
エピローグ
紙は、まだ引き出しにある。
捨てていない。
捨てるほどのものでもない。
ときどき開けて、目に入る。
目に入ると、少し恥ずかしい。
恥ずかしいが、書いたことが無駄だったとも思わない。
書いたから、半年後に数えた。
数えたから、動いていないと分かった。
分かったのは、書いたおかげだ。
書くことにできるのは、そこまでだ。
今年の春、自治会の役の話が来た。
その場で、はい、と言わなかった。
次の日に電話します、と言った。
言えた。
次の日、断った。
断るときに、三つ書いた紙の話はしていない。
体の具合が、と言った。
半分は本当だ。
半分は、去年の半年が作ったものだ。
出なかった半年があるから、その言い方が通る。
通ったのは、言葉ではない。
去年の秋の当番表のほうだ。
言葉は、あとから付いてきただけだ。
付いてくる順番を、長いこと逆に思っていた。
紙の三つは、いまも三つのままだ。
守れているのは、三番目だけになった。
その場で答えないようにする、という三番目だ。
これだけは守れている。
守れている理由も、たぶん紙ではない。
次の日に電話する、と一度言ってみて、通じたからだ。
通じたことは、体が覚える。
覚えたことは、次からやる。
体が覚えるまでに、一度やってみるしかない。
一度やるのがこわいので、紙に書いた。
順番が逆だった。
やったことが端になって、また形が少し動く。
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