言わなかった二日
太い線しか彫れなかったこと

朗読で聴く
第一章 ファイン
六十八になった。
町で金物屋を四十二年やって、去年たたんだ。
父の代からの店で、こちらで終わりだ。
妻のルースは六年前に六十四で死んだ。
息子のディーンが四十二で、二つ先の町にいる。
こちらは、ファイン、と言う。
どうだ、と聞かれれば、ファイン。
具合はどうだ、と聞かれても、ファイン。
店はどうだ、と聞かれても、ファイン。
四十二年、ほとんどそれで済ませてきた。
嘘ではない。
たいていのことは、だいたい、ファインだ。
悪い年も、死ぬほど悪いわけではない。
良い年も、大騒ぎするほどではない。
だからファインで合っている。
ルースが死んだ年も、人に聞かれてファインと答えた。
あれは合っていなかった。
合っていないと分かっていて、そう答えた。
合っているが、それしか出ないのも本当だ。
ほかの言い方を知らないのではない。
知っている。
知っているのに、口から出るのはそれだけだ。
父も同じだった。
父の口ぐせは、オーケー、だった。
中身はたぶん、こちらのファインと同じものだ。
言い方は違うが、幅は同じだ。
ルースは違った。
ルースは、良い日と悪い日を、ちゃんと分けて言う人だった。
四十年、こちらの一本と、向こうの細かいのが並んでいた。
並んでいたので、こちらは困らなかった。
向こうが細かく言ってくれれば、こちらは一本で足りる。
足りていたのは、向こうが足していたからだ。
第二章 幅の話
金物屋は、幅を売る仕事だ。
のみは六ミリ、十二ミリ、二十五ミリと並んでいる。
まるのみもそうだ。
客が来て、細かいところが彫れない、と言う。
こちらは棚から細いのを出して、これだ、と言う。
道具が太いと、細いことはできない。
当たり前の話だ。
四十二年、その当たり前を人に言ってきた。
言ってきたのに、自分の口については考えたことがなかった。
考えたのは去年だ。
店の棚をからにしていて、のみの箱を持ったときだった。
いちばん細いのと、いちばん太いのを、両手に持った。
太いほうでは、細い溝は掘れない。
力を入れても、ゆっくり動かしても、幅は変わらない。
幅は、手の問題ではない。
三十年、客にそう説明してきた。
説明するときは、自分は棚の側にいた。
道具の問題だ。
そこで立ったまま、しばらく動けなかった。
四十二年、太い口で人と話してきた。
客には、細い仕事には細い道具が要ると言ってきた。
同じことを、自分に言った覚えがない。
店の中では道具の話で、店の外では自分の話だからだ。
同じ話だとは思っていなかった。
第三章 ディーンが言ったこと
店じまいの最後の週に、ディーンが手伝いに来た。
三日いた。
二日目の夕方、棚を運んだあとで、床に座って休んでいた。
ディーンが、何でもない顔で言った。
親父、ファインって言わなかった日が、二日ある。
手が止まった。
いつだ、と聞いた。
母さんの葬式の日、とディーンは言った。
あの日、誰に何を聞かれても、何も言わなかった。
もう一日は、と聞いた。
俺が仕事が決まったって電話した日、と言った。
あの日も、何も言わなかった。
おめでとうも、よかったなも、言わなかった。
覚えてる、とディーンは言った。
十五年前だ、と言った。
黙ってた。
だから分かった、とディーンは言った。
何が分かった、と聞いた。
大事なやつだってことが、と言った。
ディーンは、それ以上は言わなかった。
言わずに、立って、次の棚を運びに行った。
こちらは床に座ったままだった。
しばらくしてから、棚の端を持ちに行った。
持ちながら、何か言おうと思った。
言う言葉が、やはり出てこなかった。
第四章 言えなかったのか、言わなかったのか
その晩、寝られなかった。
こちらの覚え方は、違っていた。
葬式の日、言葉が出なかった。
出なかったのを、こちらは失敗だと思っていた。
六年、思っていた。
あの日、ちゃんとしたことを何も言えなかった、と。
ディーンの電話の日も同じだ。
おめでとうと言うべきだった、とあとで思った。
言えなかったのは、自分が下手だからだと思っていた。
同じ二日を、向こうは別のものとして持っていた。
こちらは、言えなかった日として持っていた。
向こうは、言わなかった日として持っていた。
同じ空白だ。
同じ空白を、片方は失敗として、片方は形として読んでいた。
読んだのは、向こうだ。
こちらは、六年、間違えて持っていた。
間違えていたのは、出来事のほうではない。
出来事は同じだ。
読み方が違っただけだ。
自分の空白は、自分では読めない。
こちらからは、穴にしか見えない。
外から見ている人にだけ、形に見える。
だから、自分では直しようがない。
直しようがないものを、六年、直そうとしていた。
第五章 彫らないところ
まるのみの話を、また思い出した。
細い線は、細いのみで彫るものだと思っていた。
そうではない。
太いのみしか無いときは、両側を彫って、真ん中を残す。
残ったところが、細い線になる。
彫っていないところが、線として出る。
四十二年、ファインと言い続けた。
言い続けたので、まわりが全部ファインになった。
全部ファインの中で、二日だけ言わなかった。
その二日が、線になっていた。
こちらは、その線を彫っていない。
彫れなかったから、残っただけだ。
残っただけのものを、息子が読んだ。
読めたのは、ほかが全部ファインだったからだ。
ファインを四十二年言い続けたことが、二日を出した。
太い道具しか無かったことが、悪いことばかりではなかった。
細いのみを持っていたら、二日は目立たなかったかもしれない。
毎日いろいろ言う人が、ある日だけ黙っても、たぶん分からない。
一本しか無い者が黙ると、そこだけあく。
空いたところは、はっきりしている。
持っているものが少ないほうが、抜けたときに分かる。
これは慰めではない。
実際に、そういう仕組みになっている。
エピローグ
店はもう無い。
棚は全部出して、床だけになった。
最後の日、鍵を閉めて、外から窓を見た。
からになった店は、ただの箱だ。
ディーンが車で待っていた。
乗ってから、何か言おうと思った。
礼を言うべきだと思った。
四十二年ぶんの言い方を探した。
見つからなかった。
見つからないので、黙っていた。
黙ったまま、二つ先の町まで四十分走った。
途中で、ディーンが言った。
いいよ、と言った。
何がいいのかは、聞かなかった。
聞かなくても、たぶん合っている。
家に着いて、車を降りるときに、ファイン、と言った。
言ってから、しまったと思った。
ディーンは笑って、うん、と言った。
ファインでいい日も、ある。
全部の日をファインにしなければ、それでいい。
今度いつ、何も言わない日が来るかは、分からない。
来るときは、来る。
こちらが作るものではないらしい。
作れるのは、まわりのほうだ。
毎日ファインと言い続けるのは、こちらにできる。
できることを四十二年やってきた。
やってきたことが、無駄ではなかった。
ディーンには、まだ礼を言っていない。
言う日が来たら、たぶん何も言わない。
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