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いいんじゃない

太い線しか彫れなかったこと

いいんじゃない

朗読で聴く

第一章 四十五年、同じ返事

七十になった。

夫の隆一は七十三で、四十五年いる。

娘が一人、五十歳で、車で四十分のところにいる。

夫は、いいんじゃない、と言う人だ。

何を出しても、そう言う。

夕飯に新しいものを作った日。

いいんじゃない。

カーテンを替えた日。

いいんじゃない。

髪を短くした日。

いいんじゃない。

四十五年、ほとんどそれで済んでいる。

悪いとは言われない。

言われないのは、ありがたいことなのだと思う。

怒鳴られたことも、けなされたことも一度も無い。

四十五年で一度も無いのは、めずらしいと思う。

思うが、ありがたいと感じたことは、あまりない。

良いか悪いかを言ってもらえないと、こちらは置き場所に困る。

褒められたいのではない。

見たのか見ていないのかが、分からない。

見ていないほうに、だんだん寄って考えるようになった。

四十五年かけて、寄った。

たぶんこの人は、何も見ていない。

そう思うのが、いちばん楽だった。

楽なほうに、こちらが決めたのだ。

決めたあとは、確かめなくてよくなる。

確かめないでいると、決めたことが本当になっていく。

本当になったものは、もう決めたものに見えない。

最初からそうだった気がしてくる。

四十五年あれば、じゅうぶんそうなる。

第二章 決めた日は無い

いつからそう思っていたのかは、分からない。

決めた日は無い。

最初のころは、聞き返していたと思う。

どこがいいの、と聞いた覚えがある。

夫は、どこって、と言って、そのあとが続かなかった。

続かないのを二、三度見て、聞かなくなった。

聞いても出てこないなら、無いのだろうと思った。

無いと思うと、腹も立たない。

腹が立たないので、四十五年もった。

そのかわり、こちらも出さなくなった。

今日はこれを作った、と言わなくなった。

黙って出すようになった。

黙って出して、いいんじゃない、と言われる。

その往復に、言葉は二つしか要らない。

二つで回る。

回るものは、止まらない。

止まらないものは、楽だ。

考えないで済む。

夫の親も、そういう家だったと思う。

法事で親戚が集まっても、夫の側はみんな静かだった。

静かなのを、そういう家柄だと言う人もいた。

家柄ではなく、道具だったのかもしれない。

第三章 娘が病院から帰ってきた

去年の冬、夫が入院した。

足の血の流れが悪くなって、二週間だった。

こちらは家を空けられなかった。

母が同じ時期に施設で熱を出していて、そちらに行っていた。

病院には娘が行ってくれた。

週に三回、四十分かけて通ってくれた。

娘は仕事を早く切り上げて行ってくれた。

こちらは、ありがとう、としか言えなかった。

ありがとう、も一本だ。

三度目に来た日、娘が台所に座って言った。

お父さん、お母さんの煮物の話ばっかりしてたよ。

手が止まった。

煮物、と聞き返した。

うん、と娘は言った。

大根を先に入れるのがいいんだって。

あとから入れると味が入らないから、って。

おばあちゃんのは後入れだったけど、お母さんのは先入れだって。

四十年前からそうだって言ってた。

そこまで聞いて、椅子に座った。

夫は、そんな話をこちらにしたことがない。

一度も無い。

四十五年、いいんじゃない、しか聞いていない。

その中で、大根の順番まで見ていた。

娘は、変な話でもした、という顔をしていた。

こちらの顔を見て、どうしたの、と聞いた。

なんでもない、と言った。

なんでもない、も、一本の言葉だ。

その場で気づいて、言い直そうとして、やめた。

やめたのは、言い方を持っていなかったからだ。

第四章 太さの話

その晩、眠れなかった。

腹が立っているのかと思ったが、違った。

違うと分かるまでに、しばらくかかった。

腹が立っていたのではなく、恥ずかしかったのだ。

四十五年、こちらが決めていた。

この人は見ていない、と決めていた。

決めたのは、向こうの言葉が一本だったからだ。

一本しか出てこないから、中も一本だと思った。

中が一本なら、こちらが気にすることもない。

気にしなくていいのは、楽だ。

楽をするために、相手を細くしていた。

言葉の太さと、その人の太さは、別だ。

別なのに、太さでしか測っていなかった。

測る道具を、こちらも一つしか持っていない。

持っていないのではなく、増やさなかった。

増やす機会は、たぶん何度もあった。

人の中身は見えない。

見えないので、出てきたものの太さで測る。

太さで測ると、太いものしか出せない人は、みんな同じに見える。

みんな同じに見えると、こちらは間違えない。

間違えないかわりに、一人も見ていない。

夫のことを、四十五年、見ていなかった。

見ていないのは向こうだと思っていた。

見ていないのは、こちらのほうだった。

第五章 こちらも同じだった

春に、娘に言われた。

お母さん、私が何か言っても、べつに、って言うよね。

言われて、そうだ、と思った。

娘が服を見せても、べつに。

仕事の話をしても、べつに。

孫の写真を見せても、べつに。

いいんじゃない、と、べつに、は、同じものだ。

こちらは受け取る側にいるつもりだった。

受け取る側で、損をしている側だと思っていた。

同じ道具を持っていた。

同じ幅の一本しか出していなかった。

娘は、こちらのことを、どう思っているだろう。

たぶん、こちらが夫を思っていたのと同じに思っている。

この人は見ていない、と思っている。

見ている。

服のことも、仕事のことも、孫の顔のことも、全部見ている。

見ているが、出ていくのは、べつに、だけだ。

娘には、それが分からない。

分からないでいい、とは言えない。

こちらが四十五年、分からないでいたからだ。

分からないでいると、人を一本にしてしまう。

一本にされた側は、それを直せない。

直せるのは、一本にしたほうだけだ。

エピローグ

夫は三月に退院した。

帰ってきた日の夕飯に、煮物を作った。

大根を先に入れた。

夫は、いいんじゃない、と言った。

いつもと同じだった。

同じだったが、こちらの聞こえ方が変わった。

同じ音を、前とは違うものとして聞いた。

中で何を見ているかは、いまも分からない。

分からないが、一本しかないとは、もう思わない。

聞き返すつもりは無い。

四十五年やらなかったことを、いまから始めるのは無理だ。

無理だが、一つだけ始めた。

娘に、べつに、と言わないようにした。

うまい言葉は出てこない。

出てこないので、黙っている。

黙って、写真をもう一度見る。

もう一度見ると、見たことが向こうに分かる。

言葉より、そちらのほうが確かだった。

それだけだ。

先週、娘が言った。

最近、べつに、って言わないね。

言わないだけだ、と答えた。

娘は、うん、と言った。

うん、と言って、写真をもう一枚出した。

二枚目を出したのは、久しぶりだった。

何年ぶりかは分からない。

数えたことがないからだ。

一枚で止めていたのは、こちらの返事のせいだと思う。

べつに、と言われたら、二枚目は出しにくい。

出しにくいことを、四十年やらせていた。

言葉は増えていない。

増えていないのに、写真が一枚増えた。

ソウルミッション358

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