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七種類

太い線しか彫れなかったこと

七種類

朗読で聴く

第一章 ああ、と言う

六十六になった。

妻の和子と四十年いる。

子どもは娘が一人で、遠くにいる。

和子が何か言うと、こちらは、ああ、と言う。

四十年、ほとんどそれで済ませてきた。

朝、今日は寒いわね、と言われる。

ああ、と返す。

夕方、お父さんの傘、玄関に出しといたから。

ああ、と返す。

夜、来週、病院なの。

ああ、と返す。

同じ音だ。

同じ音だが、こちらの中では違う。

寒いわね、のときは、そうだな、と思っている。

傘のときは、すまない、と思っている。

病院のときは、送ろうか、と思っている。

思っているのに、口から出るのは、ああ、だけだ。

別の言い方が、出てこない。

出てこないというのは、知らないということではない。

知っている。

知っているのに、口の形にならない。

若いころは、言おうとしたことがある。

三十の少し前だ。

その日あったことを、順番に話そうとした。

三つ目の文で、もういいや、と思った。

もういいや、は嘘だ。

面倒だったのではない。

途中で、自分の話し方が下手なのが分かったのだ。

下手なのが分かると、続けられない。

それ以来、長いものを出していない。

第二章 数えてみた

去年の秋、和子に聞かれた。

あなたの、ああ、って、何種類あるの。

笑って言ったのではなかった。

台所で背中を向けたまま、言った。

その晩、寝る前に数えてみた。

紙に書いたのではない。

頭の中で、一つずつ思い出した。

そうだな、の、ああ。

すまない、の、ああ。

聞いている、の、ああ。

それは違う、の、ああ。

いま手が離せない、の、ああ。

あとで話そう、の、ああ。

嬉しい、の、ああ。

七つあった。

もっとあるかと思ったが、七つで止まった。

八つ目を探して、見つからなかった。

数えて、少し驚いた。

七つも使い分けていたのかと思った。

思ってから、逆のことに気づいた。

和子には、一つに聞こえている。

だから、何種類あるの、と聞いたのだ。

七つが一つになって届いている。

こちらが七つ持っていることは、こちらしか知らない。

持っていることに意味があるのか、と思った。

その晩は、答えが出なかった。

次の日、仕事に行って、忘れた。

忘れたが、十日ほどしてまた出てきた。

出てくるたびに、少しずつ形が変わった。

第三章 のみの幅

若いころ、版画をやったことがある。

高校の美術部で、二年だけだ。

リノリウムの板を、のみで彫った。

いまでもよく覚えていることが一つある。

細い線が、彫れない。

のみには幅がある。

まるのみの幅より細い溝は、どうやっても掘れない。

力を弱くしても、幅は変わらない。

速く動かしても、幅は変わらない。

細かいところを出したくて、何度も失敗した。

先生に言われた。

細い線は、彫って作るんじゃない。

両側を彫って、真ん中を残すんだ。

そのときは、意味が分からなかった。

残す、というのが分からなかった。

彫るのが仕事だと思っていたからだ。

彫らないでおくことも仕事のうちだとは、考えたこともなかった。

四十年、ときどき思い出していた。

去年、数えたあとで、また思い出した。

こちらの口は、太いのみだ。

幅が決まっている。

中で七つに分かれていても、出るときには一本になる。

太さを決めているのは、思っているほうではない。

持っている道具のほうだ。

道具のせいにするのは、楽な話でもある。

楽だと分かっていて、それでもそう思う。

四十年、道具を買い足さなかったのは、こちらだ。

買い足す機会は、たぶん何度もあった。

そのたびに、いまのままで通ったので、そのままにした。

通ってしまうのが、いちばん悪い。

第四章 父も、ああ、だった

父も、ああ、と言う人だった。

畳屋で、七十九まで生きた。

こちらが何か言うと、ああ、と言った。

子どものころ、冷たい人だと思っていた。

中身がないから一つしか出ないのだと思っていた。

三十のころ、仕事を変えると言いに行った。

父は、ああ、と言った。

それだけだった。

腹が立って、二年ほど行かなかった。

父が死んだあと、母に聞いた。

あのとき父は何も言わなかった、と言った。

母は、そうねえ、と言ってから、こう言った。

次の日、あの人、朝からずっと黙ってたわよ。

昼に、あれは向いてるかもしれん、って一度だけ言った。

こちらには言っていない。

言えなかったのだと思う。

父の口も、太いのみだった。

父の中に何があったかは、いまも分からない。

分からないが、一つしかなかったとは、もう思わない。

父の仕事場に、のみのようなものがあった。

畳の針と、包丁と、定規だ。

どれも太い。

畳は細かい仕事ではない、と父は言っていた。

太い道具で、揃ったものを作る仕事だ、と。

いま思うと、あれは仕事の話ではなかったのかもしれない。

第五章 和子に聞いた

冬に、和子に聞いた。

俺の、ああ、は、いくつに聞こえてる。

和子はしばらく考えて、二つ、と言った。

二つ。

機嫌のいいときの、ああ。

そうでないときの、ああ。

こちらの七つは、向こうでは二つだった。

七つのうち五つは、どこにも着いていない。

四十年ぶん、どこにも着いていない。

その五つは、こちらの中にだけある。

あるが、誰も受け取っていない。

驚かなかった。

その晩、もう一つ聞いた。

二つで足りてたか。

和子は、うん、と言った。

うん、と言ってから、少し黙って、こう続けた。

足りてた。

でも、ずっと、もう一つあるんだろうなとは思ってた。

この人、中では何か言ってるんだろうなって。

言ってた、と答えた。

声は出さなかったが、そう答えた。

それも、ああ、で出た。

言ってから、和子は台所に立った。

背中を向けて、湯呑みを洗っていた。

洗う音が、いつもより長かった。

長かったのが、返事だったのだと思う。

向こうにも、道具の幅がある。

エピローグ

言い方を増やそうとは思わない。

六十六で増える気がしない。

増やそうとして、変なことになるのも見てきた。

その代わり、一つだけ変えた。

病院の話のときだけ、ああ、を言わないことにした。

言わないで、送ろうか、と言う。

それだけだ。

一つ空けると、そこが目立つ。

ほかが全部、ああ、だからだ。

先生の言っていたことは、これだったのだと思う。

細い線は、彫って作るのではない。

両側を残して、そこだけ彫らないでおく。

太い道具しか持っていなくても、置かないことはできる。

置かないところが、形になる。

やってみて分かったことが、一つある。

空けるのは、言うより難しい。

ああ、と言いそうになるのを、止めないといけない。

四十年で体になったものを、一か所だけ止める。

止めると、一瞬、そこだけ何も出ない。

その一瞬が、こちらにはかなり長く感じる。

向こうには、たぶん一秒も無い。

二月に、和子が病院から出てきて言った。

最近、病院のときだけ違うね。

ああ、と言いそうになって、やめた。

やめて、そうか、と言った。

和子は笑った。

笑われたが、悪くなかった。

七つのうち、まだ六つは出ていない。

出ないままだと思う。

出ないままでも、一つ空ければ、そこは読める。

残りの六つは、たぶん死ぬまで出ない。

出ないものを持っているのは、悪いことではない。

持っていることと、渡すことは、別だ。

別だと分かるのに、四十年かかった。

ソウルミッション358

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