外を一周
どこにも切れ目が無かったこと

朗読で聴く
第一章 鍵を開ける前に
六十七になった。
中西部の小さな町だ。
人口は二千を少し切る。
通りは一本で、その真ん中に食堂がある。
その食堂を、三十九年やっている。
夫のレイと二十八のときに始めた。
レイは八年前に、七十で死んだ。
いまは一人で開けている。
朝は五時に開ける。
起きるのは四時だ。
四時四十分に店に着く。
着いて、すぐには鍵を開けない。
建物の外を、一周する。
三十九年、毎朝そうしている。
順番も、三十九年同じだ。
まず正面のガラスを見る。
それから東へ回って、ゴミ箱の蓋を確かめる。
裏の段の氷を落とす。
雨樋のはずれを見上げる。
西へ回って、駐車場の白線を見る。
看板の電球が切れていないか見る。
それで正面に戻って、鍵を開ける。
一周は四分くらいだ。
冬はもう少しかかる。
レイは一周をしなかった。
鍵を開けてから、中で回る人だった。
一周はこちらが始めて、こちらだけが続けている。
何のためかと聞かれたことがある。
見ておくため、と答えた。
見ておけば、あとで困らない。
三十九年で、困ったことは二度しか無い。
二度とも、一周で見つけた。
一度は裏の段の氷で、もう一度は雨樋だった。
氷は、誰かが滑る前に落とせた。
雨樋は、抜ける前に留められた。
どちらも、中にいたら分からない。
外を回らないと見えないものが、ある。
自分のことは、それで見えなかった。
第二章 みんなが名前を知っている
この町の人は、みんなこちらの名前を知っている。
二千人の、たぶん全員だ。
子どものころから来ている人が、いま親になっている。
その子どもも来る。
三代で来ている家が、いくつもある。
誰にでも名前で呼びかける。
いつものでいいか、と聞く。
聞かなくても出せるが、聞く。
葬式があれば、必ず皿を持っていく。
この町では、そうする。
焼いたものを持って、玄関で渡す。
渡して、帰る。
入りなさいと言われても、入らない。
持ってきただけだから、と言う。
三十九年、それで済んでいる。
うちに誰かを入れたことは、一度も無い。
家は店から三ブロックだ。
レイが生きていたころも、入れていない。
誕生日も、感謝祭も、店でやった。
店なら、閉めれば終わる。
終わりのある場所が、こちらは楽だった。
店には、開ける時間と閉める時間がある。
家には、どちらも無い。
無い場所で人と一緒にいるのが、どうしてもできなかった。
できないと言ったことは、一度も無い。
言わないので、誰も知らない。
知らないから、誰も聞かない。
聞かれないことは、続いていく。
母も同じだったと思う。
母はこの町で六十年暮らして、家に人を入れなかった。
悪い人だと言われたことは、一度も無い。
葬式には、町の半分が来た。
半分が来たのに、誰も家の中を知らなかった。
そのときは、それがふつうだと思っていた。
第三章 娘が言ったこと
娘のケイトは四十六だ。
十四年前に町を出て、都市にいる。
年に二回帰ってくる。
夏と、感謝祭だ。
去年の十一月、皿を洗っていた。
ケイトが後ろで布巾を持っていた。
この町の人はみんなお母さんが好きね、と言った。
そうだといいけどね、と答えた。
それから、ケイトはこう言った。
誰もお母さんを知らないけど。
水を止めた。
止めてから、また出した。
何も答えなかった。
答える言葉が、出てこなかった。
怒っていなかった。
その通りだと思った。
その通りだと思ったのに、手が止まった。
止まったのは、初めて言われたからだ。
三十九年、誰も言わなかった。
言わなかったのは、思っていなかったからではない。
言う場面が、こちらの側に無かったからだ。
ケイトはその夜、何も足さなかった。
次の日も、いつもの通りだった。
布巾をたたんで、帰っていった。
言った本人は、忘れたのかもしれない。
こちらは、忘れなかった。
十二月になっても、まだあった。
店で、皿を出しながら考えた。
この町の人は、こちらの声を知っている。
どの席が好きかも知られている。
卵の焼き方の癖も知られている。
知られているのは、外側だけだ。
外側を三十九年、毎日見せてきた。
見せてきたので、みんな知っていると思っている。
こちらも、知られていると思っていた。
第四章 歩道の影
十二月に、閉めたあとで一周をした。
夜の一周は、たまにする。
雪の前だけだ。
看板の明かりがついていた。
明かりを背にして歩いた。
歩道に、自分の影が落ちていた。
黒い形が一つ、雪の上にあった。
中は見えない。
何を着ているかも、分からない。
分かるのは、ふちだけだった。
そのふちが、一周つながっていた。
どこにも切れ目が無かった。
ぎざぎざにもなっていない。
きれいに一周だけしてあった。
しばらく立って見ていた。
閉じているものには、入る所が無い。
拒んだ日は、一日も無い。
断ったことも、一度も無い。
それでも、入る所が無い。
三十九年、少しずつ引いた線が、つながっていた。
つないだのはこちらだ。
つないだ日は、無い。
影を見たあと、店の窓に自分を映した。
窓の中は、明かりで見えた。
中が見えるのは、こちらから見たときだけだ。
外の人には、黒い形しか見えない。
三十九年、町の人が見ていたのはそれだ。
黒い形は、いい形だった。
いい形だから、誰も文句を言わない。
文句が出ないと、直す理由も出ない。
三十九年、直す理由が一度も出なかった。
第五章 切らないことにした
ひと月のあいだ、そのことを考えた。
どこかを開けようと思った。
家に人を呼ぶ。
ケイトを泊める。
誰かを台所に立たせる。
考えて、体が固くなった。
固くなるのは、六十七だからではない。
三十九年、そう作ってきたからだ。
切ると、形が壊れる気がした。
壊れてもいいのかもしれない。
でも、壊さない道を探した。
探して、一つ思いついた。
ふちの内側に入ってこられないなら、ふちを一緒に歩けばいい。
歩くのは、入ることではない。
入ることではないが、離れていることでもない。
春にケイトが帰ってきた。
次の朝、四時四十分に起こした。
一緒に一周する、と言った。
ケイトは何も聞かずに、上着を着た。
聞かれたら、説明できなかったと思う。
説明する言葉を、用意していなかった。
用意していないほうが、たぶんよかった。
エピローグ
二人で一周した。
ケイトはゴミ箱の蓋を閉めた。
裏の段の氷を、靴の先で落とした。
雨樋を見上げて、少し外れてる、と言った。
直すつもりだと答えた。
駐車場の白線のところで、ケイトが立ち止まった。
これ、毎朝なの、と聞いた。
三十九年、と答えた。
ケイトは、うん、とだけ言った。
それから正面に戻って、鍵を開けた。
話は、ほとんどしていない。
四分のあいだに、六つか七つの言葉だ。
店に入って、コーヒーを二つ落とした。
ケイトはカウンターに座った。
座るとき、いつもの席ではないところに座った。
いまケイトは、月に一度、朝の便で来る。
一周だけして、昼の便で帰る日もある。
うちには、まだ入っていない。
入る話も、出ていない。
出なくてもいいのかもしれない。
一周は、二人で四分だ。
一人でも四分だった。
同じ四分が、同じではなくなった。
線は、いまも切れていない。
切ろうとしたのを、やめた。
やめたことを、負けだとは思わない。
入ってこられないものは、そのままでいい。
そのままで、隣を歩ける。
隣は、内側ではない。
内側ではないが、遠くもない。
同じものを見ながら、同じ方向に歩いている。
三十九年、それを誰にも頼まなかった。
頼めば、来る人がいた。
切れていない線に、沿う道ができた。
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