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明日も早い

どこにも切れ目が無かったこと

明日も早い

朗読で聴く

第一章 隣の台

七十になった。

町の鉄工所に、十八から六十三まで勤めた。

四十五年だ。

やめて七年たつ。

隣の台に、沢田さんがいた。

三つ年上で、こちらが入ったときから、もういた。

沢田さんも、こちらがやめる年までいた。

四十五年、隣だった。

二つの台のあいだは、一メートル半くらいだ。

手を伸ばせば、相手の道具に届く。

届くところに、四十五年いた。

仕事は、よく噛み合った。

段取りを言わなくても通じた。

こちらが材を持てば、向こうが端を押さえる。

押さえてくれと言ったことは、一度も無い。

四十五年で、揉めたことが一度も無い。

一度も無いというのは、めずらしいと思う。

工場にはいろいろな人がいて、揉める人は揉める。

沢田さんとは、揉める場面が来なかった。

来なかったのは、噛み合っていたからだ。

噛み合っていたのに、話はしなかった。

話をしないのは、こちらのせいではないと思っていた。

向こうが話さないから、話にならない。

そう思っていた四十五年だ。

声をかけるときの癖が、体についた。

鋼を叩く音の切れ目を待つ癖だ。

切れ目で声をかければ、手を止めさせずに済む。

止めさせない気づかいのつもりだった。

いま思うと、止まらない形で話していた。

第二章 聞いていないこと

沢田さんの家のことを、何も知らない。

四十五年、一言も聞いていない。

結婚しているのは知っていた。

指輪をしていたからだ。

子どもがいるのも、たぶんそうだと思っていた。

たぶん、というところで止まっている。

何人かも、男か女かも、知らない。

聞かなかったのではない。

聞いた。

何度も聞いた。

お子さんは、と聞いた。

ええ、と沢田さんは言った。

それだけだった。

嫌な顔はしない。

嫌な顔をされたら、こちらも分かる。

ええ、と言って、手元に戻る。

戻るときの動きが、いつも同じだった。

同じだから、押していいのか分からない。

怒っていないので、押す理由も無い。

沢田さんは、こちらのことは聞いてきた。

子どもは何人だ、と聞かれた。

二人です、と答えた。

男と女か、と聞かれた。

そこまで聞いて、そうか、と言った。

聞くほうは、するのだ。

するのに、返さない。

返さないのを、こちらは意地悪だと思った。

意地悪をする人ではない、とも知っていた。

第三章 明日も早い

酒に誘ったのは、数えていないが何十回だ。

年に一度は誘った。

四十五年なら、四十回は超えている。

毎回、同じ言葉が返ってきた。

明日も早いから。

それだけだった。

断る、とは言われていない。

行かない、とも言われていない。

明日も早いから、と言われただけだ。

だから次の年も誘えた。

誘えるようにしてあったのかもしれない。

昼は、外の階段で一人だった。

こちらが隣に座った日がある。

沢田さんは詰めて、場所をあけてくれた。

あけてくれて、そのまま黙って食べた。

二十分、黙っていた。

気まずくはなかった。

気まずくないことが、少し怖かった。

弁当の蓋を閉める音が、きっかけになると思っていた。

閉める音がして、こちらが口を開く前に、立った。

立って、ありがとう、と言った。

何にありがとうなのか、分からなかった。

土産を渡したことも、何度かある。

旅行の菓子折りだ。

沢田さんは必ず受け取って、必ず礼を言った。

次の日に、同じくらいの物が返ってきた。

同じくらいというのが、正確だった。

多くも少なくもない。

返されると、そこで終わる。

終わらせない渡し方が、こちらに思いつかなかった。

第四章 壁だと思っていた

六十のころ、腹を立てたことがある。

沢田さんが入院した年だ。

肺のあたりで、二週間だった。

見舞いに行った。

病室に十分間いて、それで帰った。

悪いね、疲れるから、と言われた。

本当に疲れていたのだと思う。

思うのに、帰りの電車で腹が立った。

四十年もいて、十分間か、と思った。

思ってから、恥ずかしくなった。

こちらは、見舞いに行った形が欲しかった。

欲しかったのは、沢田さんではなく、形だ。

その日から、壁がある人だと思うようになった。

壁だと思うと、楽になった。

楽になったのは、こちらのせいでなくなるからだ。

冷たい人だ、と何度か人に言った。

言ったあと、必ず後味が悪かった。

悪いのに、また言った。

言うと、探すのをやめられる。

やめられるが、やめていない。

次の年また誘った。

誘って、明日も早いから、と言われた。

言われて、そうですね、と返した。

その往復が、四十五年で四十回以上ある。

四十回、同じ言葉を交わしている。

同じ言葉を四十回交わすのは、無いことではない。

第五章 娘さんの言ったこと

三年前、沢田さんが死んだ。

七十六だった。

葬式に行った。

受付で名前を書いていたら、娘さんが来た。

四十くらいの人だった。

父がよく、あなたの話をしていました、と言われた。

手が止まった。

何を、と聞いた。

仕事の話です、と娘さんは言った。

隣の人は手が速い、と。

それだけですけど、よく言っていました、と。

それだけ、と娘さんは言った。

こちらは、それだけで足りた。

足りたことに、その場で驚いた。

四十五年、足りない気がしていた。

足りないと思っていたのは、入れてもらった形だ。

形が無いので、無いほうを数えていた。

沢田さんのふちは、一周閉じていた。

どこにも切れ目が無かった。

切れ目が無いものに、入り口を探していた。

無いものを探していたから、いつまでも足りなかった。

閉じていることは、拒んでいることではない。

拒まれた日が、四十五年で一日も無い。

拒まれていないのに、入れなかった。

入れなかったことを、拒まれたと数えていた。

数え方が、間違っていた。

エピローグ

沢田さんは、こちらを名前で呼んでいた。

苗字ではなく、下の名前だった。

工場で下の名前で呼ぶ人は、ほかにいなかった。

四十五年、そう呼ばれていた。

呼ばれていたことに、葬式の帰りに気づいた。

気づくのに、四十五年と三年かかった。

隣というのは、内側より近いことがある。

内側にいれば、向かい合う。

隣にいると、同じほうを見ている。

四十五年、同じ材を見ていた。

同じ材の、こちらの端と向こうの端だ。

端と端は、同じ一本でつながっている。

去年、沢田さんの息子さんから電話があった。

父の道具を引き取ってもらえないか、という話だった。

息子さんがいたことを、そこで知った。

知って、家に行った。

玄関で渡されると思っていた。

上がってください、と言われた。

上がった。

仏壇の横に、沢田さんの工具箱があった。

箱のかどが、こちらのと同じ形にすり減っていた。

同じ持ち方をしていた。

持ち方は、教えていない。

教えていないのに、同じだった。

四十五年、隣で見ていたということだ。

見ていたのは、こちらだけではなかった。

道具は、いま台所の棚に置いてある。

使っていない。

使わないが、毎朝見る。

見ると、隣の台の音が聞こえる。

音のあいだの切れ目も、思い出す。

切れ目を待っていたのは、こちらだ。

待っていれば入り口が開くと思っていた。

入る所は、待っても開かない。

沢田さんの音には、切れ目が無かった。

ソウルミッション358

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