上がってください
どこにも切れ目が無かったこと

朗読で聴く
第一章 断ったことが無い
六十五になった。
この団地の三号棟に、四十年住んでいる。
二十五で入って、そのまま四十年だ。
夫は十二年前に六十で死んだ。
子どもはいない。
いまは一人で、四階の角の部屋にいる。
四十年、断ったことが一度も無い。
回覧板は次の日に回す。
班長は三回やった。
草取りは朝六時から出る。
集金も、留守のうちのぶんを預かる。
法事にも、葬式にも、全部出た。
頼まれごとを、考えたことがない。
考える前に、はい、と返事が出る。
四十年で、それが体になった。
そういう人だと思われている。
思われていることは、知っている。
三号棟の人はみんな、名前で呼んでくれる。
挨拶は、誰よりも先にする。
先にするのは、待つのが嫌だからではない。
先にすれば、それで済むからだ。
済むというのは、そこで終わるということだ。
母がそういう人だった。
実家は商売をしていて、人がよく来た。
母は誰にでも頭を下げ、誰も家に上げなかった。
店の土間で全部済ませていた。
土間があるのが商売の家で、団地には土間が無い。
無いので、たたきが土間になった。
第二章 たたきで済ませる
四十年、家に人を上げたことが一度も無い。
一度も、というのは本当に一度もだ。
夫が生きていたころも、上げていない。
夫の同僚が来たときも、玄関で帰した。
用のある人は、玄関に来る。
こちらはドアを開けて、たたきに立つ。
相手は外の廊下にいる。
その形で、四十年やってきた。
判子はたたきで押す。
預かるものも、たたきで受け取る。
お裾分けもたたきで渡す。
お茶を出したことは、ない。
寒い日も、たたきで話す。
長い話のときは、こちらが外に出る。
外に出れば、中の話にならない。
ドアノブに片手を置いたまま話す癖がある。
置いているのは、閉めるためではない。
開けておく理由が、こちらに要るからだ。
もう片方の手は、ドアを背中で押さえている。
そうすると、部屋の中が相手から見えない。
見せたくないものは、何も無い。
散らかしてもいない。
見せたくないのではなく、見せる形が無い。
夫は何も言わなかった。
言わなかったのは、同じだったからだと思う。
夫も、人を連れてきたことが一度も無い。
二人で四十年、同じ形をしていた。
同じ形の二人だと、直すきっかけが無い。
第三章 言わなかった言葉
上がってください、と言ったことが一度も無い。
言わないと決めた日は、無い。
決めていれば、覚えている。
覚えがないのだから、決めていない。
四十年、その言葉が口の形になったことがない。
言おうとしたことは、何度もある。
言おうとして、息を吸って、やめた。
やめるのに理由は付いていない。
いま言うと、変だと思った。
四十年言っていないから、いま言えば変だ。
変だと思うところまでが、ひとつづきになっている。
客用のスリッパを、買ったことがない。
買っていないのだから、上げられない。
上げられないから、買わない。
どちらが先か、もう分からない。
押入れに座布団が二枚ある。
夫のときの法事で使ったものだ。
十二年、出していない。
湯呑みは自分のぶんと、夫のぶんの二つ。
来客用の湯呑みは、持っていない。
持っていないことに、去年気づいた。
気づくまで、四十年気づかなかった。
夏に、宅配の若い人が汗をかいていた。
水を飲みますか、と言おうとした。
言おうとして、息を吸った。
吸って、ありがとうございます、と言った。
言った言葉は、間違っていない。
間違っていないほうが出てくる。
四十年、間違っていないほうばかり出してきた。
第四章 階段で聞いたこと
去年の秋、三階の踊り場で聞いた。
隣の川崎さん、八十だ。
誰かと話していて、こちらの名前が出た。
いい人よ、と川崎さんは言った。
何を頼んでも断らないの、と言った。
それから、こう言った。
でも、よく知らないのよ。
四十年、隣なのにねえ。
そこで足が止まった。
止まってから、二階まで降りた。
降りて、外に出て、しばらく歩いた。
怒っていなかった。
悪く言われたとも思わなかった。
その通りだと思った。
その通りだと思ったのに、足が止まった。
止まったのは、初めて言葉にされたからだ。
断られた人は、断られたことを覚えている。
断った人のことは、よく覚えている。
こちらは、誰のことも断っていない。
だから誰の中にも、こちらの覚えが無い。
入り口の無い家のことは、誰も覚えていない。
通りかかった人は、そこに家があったとしか言えない。
川崎さんは、悪気で言っていない。
悪気が無いから、よけいに正しかった。
四十年、隣なのにねえ、という言い方だった。
四十年という数が、こちらにも同じだけある。
同じ四十年を、向こうは待って過ごしていた。
第五章 一周してある
冬に、玄関の内側を見た。
たたきがある。
上がり框があって、その先が廊下だ。
四十年、相手はたたきまで来て帰った。
框を越えた人が、一人もいない。
框の木が、そこだけ色が違う。
こちらの足が四十年当たって、そこだけ白い。
相手側は、四十年、何も当たっていない。
同じ一本の木で、片側だけが減っている。
玄関のドアを外から見た。
冬の夕方で、廊下の向こうが明るかった。
明るいほうを背にして、ドアは黒く見えた。
黒い形が、一周つながっていた。
どこにも切れ目が無かった。
ぎざぎざにもなっていない。
きれいに、一周だけしてある。
閉じているものには、入り口が無い。
入り口が無いのは、拒んだからではない。
拒んだ日が一日も無いのに、閉じている。
閉じたのはこちらだ。
こちらだが、閉じた日は無い。
四十年、毎日ちょっとずつ閉じていて、線がつながった。
つながった線は、きれいだった。
きれいだと思ったことが、いちばん困った。
どこかが欠けていれば、人が入ってこられる。
欠けていないので、どこからも入ってこられない。
エピローグ
スリッパを二組、買った。
薄い灰色のを二組。
箱から出して、たたきに並べた。
並べてから、二か月たった。
まだ誰も履いていない。
履かせる話を、こちらから出していない。
出せていない。
言葉のほうは、四十年ぶんかかっている。
スリッパは千二百円で買えた。
言葉には、値段が付いていない。
回覧板は、いまも次の日に回している。
断っていない。
断らないことは、もう変えなくていい。
変えるのは、断らないことの反対ではない。
断らないことと、上げることは、別のことだった。
四十年、同じことだと思っていた。
断らないでいれば、いつか誰かが上がると思っていた。
上がる道が無いのだから、誰も上がらない。
道は、こちらが付けるものだった。
付ける道は、一本でいい。
一本開けば、そこが入り口になる。
一周ぜんぶを開ける必要は、無い。
春に、川崎さんの分の草取りをした。
腰が悪いと言っていたからだ。
終わって、四階まで上がってきた川崎さんに、お礼を言われた。
たたきで、言われた。
言われて、口が少し開いた。
開いたところで、止まった。
止まったが、前より近いところで止まった。
次は、言えるかもしれない。
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