中くらいの一枚
灰色は無く、白と黒の間隔だったこと

朗読で聴く
第一章 四十年
六十八になった。
畳屋を四十年やって、去年やめた。
父の代からの店で、こちらで終わりだ。
息子は勤め人になった。
弟子が一人いたが、十年前に独立した。
独立するとき、何も渡せなかった。
渡すほどのものが、こちらに無かった。
四十年、畳を縫ってきた。
何枚縫ったかは分からない。
数えていない。
一日に二枚か三枚で、年に五百枚くらいだと思う。
四十年なら、二万枚に近い。
二万枚のうち、覚えている仕事は、いくつも無い。
覚えていないほうが、ふつうだ。
毎日のことを覚えていたら、毎日ができない。
自分のことを、中くらいの職人だと思ってきた。
名人ではない。
下手でもない。
組合に六十人いて、上から数えても下から数えても、真ん中あたりだ。
そう思って、四十年やってきた。
中くらいというのは、楽な場所だ。
どちらにも行かなくていい。
上を目指さなくていいし、落ちる心配もしなくていい。
四十年、その楽なところにいた。
名人のように見られないし、下手だと言われもしない。
父は、名人だったと言われている。
こちらは、そう言われたことが一度も無い。
言われないことに、慣れた。
慣れると、それが自分の場所になる。
自分の場所だと思っていたものを、四十年、出なかった。
第二章 見て回った
去年、店をたたむ前に、仕事を見て回った。
納めた家を、思い出せるだけ回った。
十七軒あった。
電話をしてから行った。
断られた家は一軒だけだ。
あとは、みんな上げてくれた。
畳屋が畳を見に来たと言うと、たいてい笑われた。
お茶を出されて、長話になった家もある。
畳の話は、ほとんど出なかった。
古い家が多い。
中には、四十年前に納めた畳がまだ入っている家もあった。
いちばん古いのは、独立した年の仕事だ。
二十八のときに納めた。
表は替えてあるが、床は同じものだ。
座らせてもらって、縁を見た。
縫い目を見た。
自分の仕事は、見れば分かる。
誰が縫ったか、職人なら分かる。
見て回って、分かったことがある。
中くらいの一枚が、無い。
これは、その場ではすぐに分からなかった。
三軒めか四軒めで、何かおかしいと思った。
十軒を越えたころ、はっきりした。
第三章 良いか、だめか
十七軒で、六十枚ほど見た。
どの一枚も、良いか、だめかのどちらかだった。
良い一枚は、四十年たってもまっすぐだ。
手で押しても、戻ってくる。
縁が浮いていない。
角が生きている。
だめな一枚は、縁が波打っている。
角が落ちている。
踏めば、少し沈む。
沈むところは、縫いが甘い。
甘いのは、その日の手だ。
同じ手で、同じ年に縫ったものだ。
中くらいの一枚は、一枚も無かった。
これは、思っていたのと違う。
中くらいの職人なら、中くらいの畳を縫っているはずだ。
そうではなかった。
良い日と、だめな日があって、その日のものが、そのまま残っていた。
中くらいというのは、全部をまとめて、遠くから見たときの言い方だ。
遠くから見ると、白と黒が混ざって灰色に見える。
近くで見ると、白か黒しかない。
畳の縁も、そうだ。
遠くから見れば、一面、同じ色に見える。
近くで見ると、藺草の一本ずつが、明るいのと暗いのに分かれている。
中くらいの色の一本は、無い。
第四章 良い日
良い日のことは、覚えている。
朝、手が決まっている日がある。
糸の張りが、指で分かる。
その日は、考えないで縫える。
考えないで縫ったものが、良い。
だめな日も、覚えている。
前の晩に眠れなかった日。
金の心配をしていた日。
人と揉めた日。
そういう日は、手元が定まらない。
定まらない日でも、仕事は止められない。
畳は、明日までに入れると言ってある。
言ってあるので、縫う。
定まらないまま、納める。
納めてしまえば、分からない。
客には分からない。
こちらには、分かる。
納めるとき、目を合わせないようにしていた。
合わせなければ、言われない。
分かっているのに、納めた。
納めたあと、それを中くらいのうちに入れた。
入れてしまえば、数の中で薄まる。
薄まったものを、四十年ぶんためて、中くらいと呼んでいた。
薄めるのは、こちらの側でやっていたことだ。
畳のほうは、薄まっていない。
一枚ずつ、その日のまま、家に入っている。
第五章 弟子の言ったこと
去年の暮れ、独立した弟子が来た。
四十五になっている。
店をたたむと聞いて、挨拶に来た。
酒を出して、昔の話をした。
弟子が、こう言った。
親方、あの家の、座敷の六枚。
こちらは、すぐに分かった。
二十年前の仕事だ。
弟子は言った。
あれ、俺、いまでも敵わないと思ってます。
こちらは、そうか、と答えた。
答えてから、あの仕事のことを思い出した。
あの六枚は、三日で縫った。
三日とも、手が決まっていた。
三日続けて決まることは、めったに無い。
一年に一度あるかどうかだ。
その一度が、たまたま大きい仕事に当たった。
当たったのは、こちらの手柄ではない。
弟子に、言った。
あれは、いい日が三日続いた。
弟子は、首を振った。
親方、そういう日が来るのは、腕があるからですよ。
こちらは、それには答えなかった。
答えられなかった、が近い。
その場では、何も言わずに酒を注いだ。
腕があるから良い日が来るのか。
良い日が来たから良い仕事になったのか。
どちらか分からない。
分からないが、一つだけ分かる。
あの六枚は、中くらいではない。
中くらいでないものは、ほかにもあるはずだ。
だめなほうにも、同じだけあるはずだ。
どちらも、こちらが数えていないだけだ。
エピローグ
店の道具は、大方、弟子にやった。
包丁と、針と、糸締めだけ手元に残した。
残しても使わない。
使わないのに、持っている。
処分するほどのものでもない。
ときどき、出して見る。
中くらいの職人だと思ってきた四十年は、嘘ではない。
組合の六十人の中では、たぶん真ん中だ。
ただ、真ん中というのは、人と比べた話だ。
自分の仕事の中に、真ん中は無い。
二万枚のうち、良いのが何枚で、だめなのが何枚か、数えられない。
数えられないので、まとめて中くらいと呼んだ。
まとめると、楽になる。
だめな一枚のことを、一枚ずつ思い出さなくて済む。
ただ、まとめると、良い一枚も一緒に消える。
あの座敷の六枚は、四十年で数枚しか無いもののはずだ。
それを、こちらは中くらいの中に入れて、忘れていた。
弟子に言われるまで、思い出さなかった。
まとめるというのは、そういうことだ。
いまは、一枚ずつ思い出そうとしている。
思い出すのは、夜が多い。
布団に入って、天井を見ているときだ。
良いほうも、だめなほうも。
思い出せるのは、両方合わせて二十枚くらいだ。
いい日の十枚と、だめな日の十枚だ。
数がそろっているのは、たまたまだと思う。
二万枚のうちの二十枚だ。
残りは、もう出てこない。
出てこないものは、中くらいでもない。
ただ、どこにも無い。
無いのに、その家には入っている。
入っているものを、こちらが持っていないだけだ。
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