納屋の床
薄れなかったこと

朗読で聴く
第一章 四角い跡
七十四になった。
アメリカの、北のほうで農場をやってきた。
いまは、土地を貸している。
納屋だけ、こちらのものだ。
納屋の床は、コンクリートだ。
入って、右の奥に、四角い跡がある。
大きさは、車一台ぶんくらいだ。
まわりの床は、黒い。
油と、埃と、四十年ぶんの土で黒い。
その四角の中だけ、明るい。
コンクリートを打ったときの色だ。
灰色というより、少し白い。
境目は、はっきりしている。
指でなぞると、段差は無い。
同じ高さだ。
高さは同じで、色だけが違う。
穴ではない。
へこんでもいない。
同じ面が、そこだけ違う育ち方をした。
そこに、穀物の乾燥機が置いてあった。
四十二年、置いてあった。
八年前に、売った。
売った理由は、こちらが一人になったからではない。
その二年前から、もう回していなかった。
畑を貸したので、乾かすものが無くなった。
無くなってからも、二年、置いてあった。
置いてあるうちは、いつでも戻せる気がしていた。
第二章 そのうち同じ色になる
売ったとき、買い手が来て、納屋から運び出した。
運び出したあとに、その四角が出てきた。
こちらは、それを見て、立っていた。
四十二年ぶりに見る床だ。
買い手の男が、笑って言った。
きれいなもんだね。
それから、こう言った。
そのうち同じ色になるよ。
こちらは、そうね、と答えた。
同じ色になるものだと思った。
一年たって、同じだった。
三年たって、同じだった。
八年たっても、同じだ。
明るいままだ。
まわりは、少しずつ黒くなっている。
黒くなっているのに、四角の中だけ、変わらない。
差は、縮まっていない。
縮まるどころか、広がっている。
広がっているのは、まわりが黒くなり続けているからだ。
中は、何も変わらない。
変わらないものと、変わるものが、同じ床にある。
第三章 歩かないところ
去年の冬、納屋で長く座っていた。
寒い日で、外に出る用事が無かった。
ストーブを入れて、椅子を出して、座った。
座って、その四角を見ていた。
見ているうちに、分かったことがある。
こちらは、その四角の中を歩いていない。
八年、一度も歩いていない。
歩く用事が無い。
納屋に入って、右に行って、道具を取って、出る。
その道は、四角の外を通る。
四角の中に入るのは、まわり道になる。
まわり道をする理由が無い。
だから、誰も踏まない。
踏まないので、黒くならない。
黒いところは、踏まれたところだ。
油がこぼれたからではない。
こぼした油もあるが、それだけではない。
四十二年、こちらと夫が歩いた。
歩いたところが、黒い。
夫が歩いたところと、こちらが歩いたところは、少し違う。
夫は、後ろ側をよく回った。
こちらは、正面と左が多い。
それも、黒さの濃いところを見れば分かる。
分かるが、夫のぶんとこちらのぶんが重なっているので、もう分けられない。
第四章 夫のこと
夫は、三年前に死んだ。
七十八だった。
結婚した年に、あの乾燥機を買った。
買ったのは夫だ。
借金をして買った。
返すのに、九年かかった。
九年めの秋に、返し終わった。
その晩、夫は何も言わなかった。
次の日も、同じように機械を回した。
九年のあいだ、夫は毎日、あの機械のまわりを歩いた。
秋は、一日に何十回も歩いた。
こちらも歩いた。
朝、ようすを見に行く。
昼、袋を運ぶ。
夜、止める。
その三つを、四十二年やった。
秋のあいだだけだ、と人は思う。
冬も、雪のあいだも、見には行く。
行かなくてもいい日でも、行った。
機械の正面に立つ。
左から回って、後ろを見る。
右から戻る。
同じところを、同じ順で歩いた。
考えないで歩いていた。
考えないで歩いた道が、床に残っている。
残っているとは思っていなかった。
機械が出ていって、初めて見えた。
初めて見えた日に、夫はもういなかった。
夫が生きているうちに見せたかった、とは思わない。
夫は、毎日歩いていたのだから、見なくても知っている。
知らないのは、こちらのほうだった。
第五章 どちらが跡か
黒いところが跡だ、とは、ずっと思っていなかった。
跡は、あの明るい四角だと思っていた。
機械があった跡だ、と。
違う。
明るいところは、何もされなかったところだ。
四十二年、誰にも踏まれなかった。
踏まれなかったから、打った日のままでいる。
黒いところが、こちらたちのしたことだ。
朝と昼と夜の、四十二年ぶんだ。
乾燥機の跡だと思っていたものは、乾燥機の跡ではない。
乾燥機のまわりを歩いた、二人の跡だ。
機械は、動かないで立っていただけだ。
立っていただけのものが、形を残した。
形を残したのは、その形をよけて歩いた人がいるからだ。
よけて歩いた人が消えたら、この四角も消える。
消えるというのは、黒いほうが追いついてくるということだ。
追いつくには、誰かが何十年も歩かないといけない。
歩く人は、もういない。
消えないのは、こちらが、まだよけているからだ。
八年、よけて歩いている。
よける必要は、もう無い。
無いのに、よけている。
一度だけ、わざと中を歩いてみた。
去年の冬だ。
端から端まで、ゆっくり歩いた。
歩いても、何も変わらなかった。
一人が一度歩いたくらいでは、色は変わらない。
四十二年かかったものは、一度では動かない。
エピローグ
息子が、去年の秋に来た。
四十八だ。
街で働いていて、農場は継がなかった。
納屋に入って、その四角を見た。
見て、床を塗り直そうか、と言った。
塗れば、全部同じ色になる。
こちらは、いい、と答えた。
息子は、それ以上言わなかった。
言わなかったのは、こちらの言い方で分かったからだと思う。
いい、という一言に、いろいろ入っていた。
塗らない理由を、うまく言えない。
残しておきたい、とも少し違う。
同じ色にしたい人と、したくない人がいる。
こちらは、したくないほうだ。
したくない理由を、八年、探している。
探していると言うと、いつか見つかるように聞こえる。
見つからないまま八年たった。
探しているあいだ、床は同じ濃さでいる。
乾燥機は、いまも隣の州で動いていると聞いた。
動いているなら、それでいい。
あれが要らなくなったのは、こちらが年をとったからだ。
機械が悪くなったのではない。
悪くなったほうが、まだ動いている。
こちらが止まって、機械が動いている。
止まったほうの跡だけが、床に残った。
納屋には、いま何も置いていない。
置くと、その下がまた明るいまま残る。
残ってもいいと思う。
思うが、置かない。
置かないのは、四角がひとつで足りるからだ。
冬のあいだ、あそこに椅子を出して座る。
ストーブは、外の壁ぎわに置く。
納屋は寒い。
寒いが、家より落ち着く。
四角の外に、椅子を置く。
中に置けばいいのに、外に置く。
外に置いて、中を見ている。
中は、八年前と同じ色だ。
こちらのほうが、八つ年をとった。
中は、四十二年前と同じ色だ。
こちらは、四十二年ぶん年をとった。
同じ床の上で、二つの時間が別々に進んでいる。
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