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同じ濃さ

薄れなかったこと

同じ濃さ

朗読で聴く

第一章 天井

六十三になった。

二階の六畳に寝ている。

天井に、染みがある。

畳一枚ぶんくらいの大きさだ。

真ん中が濃くて、縁のほうが薄い。

形は、丸ではない。

いびつで、右側に細く伸びている。

雨漏りの跡だ。

三十年前の秋にできた。

台風の晩だった。

風より、雨がひどい晩だった。

夜中に、二階で音がした。

上がってみると、畳が濡れていた。

洗面器を置いた。

置いた洗面器に、朝までに半分たまった。

朝になって、二階に上がったら、天井から落ちていた。

その年、息子が生まれた。

生まれて四か月のときだ。

屋根は、すぐには直せなかった。

金が無かった。

応急でシートをかけて、二年たってから直した。

直したので、それきり漏っていない。

漏っていないが、染みはそのままだ。

屋根を直した年に、天井も直そうかと言われた。

大工に言われたのではない。

妻に言われた。

こちらは、屋根が先だ、と答えた。

屋根が済んだら、天井の話は出なくなった。

出なくなったのは、こちらが出さなかったからだ。

第二章 そのうち

染みができたころ、近所の大工に言われた。

乾けば、だんだん薄くなりますよ。

こちらは、そうですか、と答えた。

薄くなるものだと思った。

一年たって、同じだった。

三年たって、同じだった。

十年たっても、同じだった。

十年めに、一度だけ、はしごを出した。

天井に、手を伸ばしてみた。

触ったら、乾いている。

乾いているのに、色が違う。

それだけ確かめて、はしごをしまった。

しまうとき、妻に、どうだった、と聞かれた。

乾いてた、と答えた。

妻は、そう、と言った。

それで終わった。

薄くなっていない。

こちらは、毎晩その下で寝ている。

毎晩、見上げている。

見上げて、同じだと思う。

妻は、何度か言った。

天井、塗り替えようか。

こちらは、そのうち、と答えた。

そのうち、と何度も言った。

言っているうちに、息子が大きくなった。

息子は、その部屋を使っていた。

こちらたちは、一階の部屋にいた。

息子は二十で家を出た。

出てから、こちらが上に移った。

移ったのは、下が寒いからだ。

移ってから、また毎晩、染みを見ることになった。

移った年に、蛍光灯を新しいのに替えた。

明るくなった。

明るくなると、染みもはっきりする。

はっきりしたので、その年はよく見た。

見たが、何もしなかった。

第三章 妻のこと

妻は、七年前に死んだ。

六十一だった。

病気が見つかって、一年半だ。

最後の半年は、病院にいた。

病院から帰ってきて、二階に上がった日がある。

階段を、こちらが支えて上がった。

息子の部屋を見たい、と言った。

見て、何も言わなかった。

しばらく天井を見ていた。

それから、変わらないね、と言った。

こちらは、変わらないな、と答えた。

それだけだ。

そのとき、塗り替えようか、とは言わなかった。

言われたら、たぶん、そのうち、と答えていた。

妻は、言わないでおいたのだと思う。

言わないでおいたことは、こちらには分からない。

分からないが、言わなかったのは分かる。

妻は、塗り替えの話を、二十年で四、五回した。

四、五回だと思う。

数えていない。

数えていないのに、そのたびの返事は覚えている。

全部、そのうち、だ。

第四章 濃さ

去年の春、写真が出てきた。

息子が中学生のころの写真だ。

その部屋で撮ってある。

息子の頭の上に、天井が写っている。

染みが、写っている。

こちらは、写真を持って、二階に上がった。

写真を持ったまま、天井を見上げた。

見比べた。

同じだった。

形も、濃さも、同じだ。

二十年前の写真と、いまの天井が、同じ濃さだ。

こちらは、その場に座った。

薄くなると言われて、三十年になる。

一度も薄くなっていない。

薄くなるというのは、どういうことなのか、考えた。

薄くなるというのは、消えるということだ。

消えるというのは、無かったことになるということだ。

この染みは、無かったことにならない。

三十年、一日も休まずに、そこにある。

休まずに、という言い方はおかしい。

染みは何もしていない。

何もしていないのに、続いている。

こちらのほうが、いろいろした。

働いて、家を保って、息子を出して、妻を送った。

したことは多い。

多いのに、三十年で見せられるものは、この染みだ。

第五章 息子の言ったこと

去年の夏、息子が帰ってきた。

三十のときに結婚して、いま三十三だ。

孫を連れて、二泊した。

二階に上がって、息子が言った。

この染み、まだあるんだ。

こちらは、薄くならないんだ、と答えた。

息子は、笑った。

それから、こう言った。

俺、これ、地図だと思ってたよ。

こちらは、聞き返した。

息子は、天井を指した。

ここが島で、この細いのが川。

小学校のころ、寝る前にずっと見てた。

毎晩見てたから、形、覚えてる。

こちらは、何も言えなかった。

息子は、続けた。

薄くならなくて、よかった。

薄くなってたら、俺の地図、消えてたから。

こちらは、そこで初めて気づいた。

こちらにとって、あれは直せなかった跡だ。

息子にとっては、毎晩の地図だ。

同じ濃さのものが、二人に別々に残っていた。

残り方が違うのに、濃さは同じだ。

息子は、その晩、下の部屋で寝た。

孫が小さいので、二階は使わなかった。

こちらは一人で、二階で寝た。

寝る前に、地図だと思って見てみた。

島には、見えなかった。

川にも、見えなかった。

こちらには、雨漏りの跡にしか見えない。

三十年、そう見てきたからだ。

エピローグ

塗り替えていない。

もう塗り替えないと思う。

息子に聞いたら、塗らないでくれ、と言われた。

孫が、あの部屋で寝る日があるかもしれない。

寝たら、見上げるだろう。

見上げて、何かに見立てるかもしれない。

見立てなくてもいい。

あの部屋は、いま物置に近い。

布団は敷ける。

敷けば、誰でも寝られる。

こちらは、薄くなるという言葉を、長いあいだ信じていた。

大工は、うそをついたのではないと思う。

乾けば薄くなる染みも、たぶんある。

これは、そうではなかったというだけだ。

信じていたというより、あてにしていた。

あてにしていると、こちらが何かをしなくていい。

そのうち薄くなるのだから、いまは何もしなくていい。

三十年、それで来た。

染みは、あてにされていたことを知らない。

知らないまま、同じ濃さでいる。

薄れたものも、ある。

妻の声は、思い出せない日がある。

顔は写真で見られるが、声は残していない。

声は薄れた。

染みは薄れない。

薄れるものと薄れないものを、こちらが選んだのではない。

選んでいたら、逆にしている。

逆にできないので、いまは天井のほうを見ている。

見ていると、あの晩のことを思い出す。

思い出すのは、水が落ちてきたことではない。

四か月の息子を、下の部屋に移したことだ。

移して、二人で天井を見ていた。

あのとき、妻も見ていた。

見ていたのに、何も言わなかった。

こちらも言わなかった。

言わなくても、同じところを見ていた。

妻が見ていたものと、こちらが見ていたものは、同じ濃さだった。

ソウルミッション358

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