宛名だけ
閉じたまま、白紙だったこと

朗読で聴く
第一章 開けなくていい
六十九になった。
アメリカの、北のほうの町に住んでいる。
冬が長いところだ。
母は、十二年前に八十八で死んだ。
最後の三年は、この家で一緒に暮らした。
母の部屋は、二階の奥だった。
その部屋の押し入れに、箱が一つある。
靴の箱より、少し大きい。
紙の箱で、蓋がしてある。
紐はかけていない。
誰でも開けられる。
母は、死ぬ一年ほど前に、一度だけ言った。
あれは、私がいなくなっても、開けなくていいから。
開けろ、とは言わなかった。
開けなくていい、と言った。
こちらは、分かった、と答えた。
何が入っているのかは、聞かなかった。
聞くと、母が説明することになる。
説明させるのは、よくない気がした。
母は、説明をしない人だった。
聞けば答えるが、自分からは言わない。
父が死んだあとは、それがもっと強くなった。
父は、二十六年前に死んだ。
母は、それから十四年、一人で暮らした。
第二章 十二年
十二年、開けていない。
開けなくていい、と言われたからだ。
言われたとおりにしたのだと、長いあいだ思っていた。
そうではない。
開けなくていい、というのは、開けてもいい、ということだ。
禁じられたわけではない。
禁じられていたら、たぶん開けていた。
禁じられていないものは、あとまわしにできる。
あとまわしは、いくらでも続く。
十二年のあいだに、二度だけ、開けようとした。
どちらも、母の命日だ。
押し入れの前に座って、蓋に手をかけた。
かけて、やめた。
やめた理由は、そのときも分からなかった。
年に二度ほど、あの部屋の掃除をする。
箱は、押し入れの下の段にある。
掃除のたびに、いったん出して、床に置く。
掃除が終わると、また入れる。
毎回、手に持っている。
重さも知っている。
軽い。
紙だけの重さだ。
中が紙だと知っていて、十二年、開けなかった。
中が何かは、分からない。
紙が入っている、ということだけ分かる。
手紙かもしれないし、証書かもしれない。
写真だったら、もう少し重い。
重さで分かるのは、そこまでだ。
第三章 家を出る
去年、この家を売ることにした。
ひとりで住むには広い。
冬に、階段が危ない。
町の中の、小さいところに移る。
娘が、片づけを手伝いに来た。
四十一だ。
車で五時間のところにいる。
三日いて、帰った。
荷物を分けているあいだに、あの箱が出てきた。
出てきた、という言い方はおかしい。
どこにあるかは、知っていた。
知っていたが、最後まで手をつけなかった。
引っ越しの前の日に、床に座って、蓋を取った。
中に、封筒が入っていた。
三十通ほどある。
全部、同じ大きさだ。
封はしていない。
封筒は、どれもおもてに名前が書いてある。
母の字だ。
名前だけで、住所は書いていない。
切手も貼っていない。
出すつもりで書いたのではない、ということだ。
出すつもりなら、住所を書く。
母は、名前だけを書いた。
第四章 中の紙
一通めを取った。
母の妹の名前だった。
中に、便箋が一枚入っている。
折ってある。
開いた。
何も書いていない。
二通めを取った。
近所にいた人の名前だ。
中の便箋も、何も書いていない。
三通め、四通め、五通め。
全部、同じだった。
宛名だけがあって、中は真っ白だ。
三十通、全部である。
一枚ずつ、明かりに当てて見た。
鉛筆の跡も無い。
消した跡も無い。
書いて消したのではなく、初めから書いていない。
名前は、みんな違う。
母の妹、父の友だち、教会にいた人。
こちらの知らない名前も、五つか六つあった。
知らない名前は、母の若いころの人だろう。
叔母に聞けば分かるかもしれない。
まだ聞いていない。
いちばん下に、一通だけ、こちらの名前のものがあった。
その一通は、開けなかった。
開けないまま、床に置いた。
置いてから、蓋を戻した。
ほかの三十通は、もとの順に入れ直した。
順番は、覚えていた。
覚えていたのは、一通ずつ取ったからだ。
第五章 叔母の言ったこと
母の妹は、九十一で、まだ元気だ。
同じ州の、車で一時間のところにいる。
会いに行って、箱のことを話した。
叔母は、驚かなかった。
それから、こう言った。
あの便箋ね、あなたのお父さんが死んだ年に買ったものよ。
お母さん、便箋と封筒を、まとめて買ってきた。
誰かに書くつもりだったのね。
名前を書いて、それから座って、そのままなの。
私、見たことがある。
何度も。
こちらは、聞いた。
どうして書かなかったんでしょう。
叔母は、少し考えてから言った。
書くことが無かったんじゃないと思う。
名前を書くところまでで、できることが終わってたのよ。
その先は、あの人には無理だった。
それから、こうも言った。
書いたら、渡さなきゃいけないでしょう。
渡すと、返事が来る。
返事が来ると、続くのよ。
あの人は、続けるのがだめだった。
こちらは、その言い方を、長く考えている。
できることが終わっていた、というのは、あきらめとは違う。
毎回、封筒を出して、名前を書いた。
三十通ぶん、それをした。
したことは、三十回ある。
残ったものが、白いだけだ。
叔母は、そのあとで言った。
私にも一通あったでしょう。
こちらは、ありました、と答えた。
中は、と聞かれた。
何も、と答えた。
叔母は、そう、と言って、笑った。
笑ってから、目のところを押さえた。
あの人らしいわ、と言った。
エピローグ
新しい家に、箱を持ってきた。
封筒も、便箋も、全部そのままだ。
こちらの名前の一通も、開けていない。
開けない理由は、はっきりしている。
閉じているあいだは、何か書いてあることになっている。
開けたら、たぶん、白い。
白いと分かっているのに、開けない。
分かっていることと、決まってしまうことは、違う。
母は、こちらに、言わなかったことがあったはずだ。
こちらにも、母に言わなかったことがある。
大きいことではない。
謝るようなことでもない。
ただ、言えば母が楽になったかもしれない、という種類のことだ。
父が死んだあとの、ある年のことだ。
言わないまま、十二年が過ぎた。
言えなかったのではない。
そのうち言う、と思っていた。
思っているあいだに、母が死んだ。
母も、そのうち書く、と思っていたのだと思う。
同じ形をしている。
先月、こちらは、封筒を一つ出した。
新しいものではない。
箱の中の、余っていた一通だ。
おもてに、母の名前を書いた。
中の便箋は、そのまま入れた。
何も書いていない。
書けなかったのではない。
書くところまで行かなかった。
行かなかったのは、こちらにできることが、そこまでだからだ。
封筒は、箱に戻した。
三十一通になった。
増やすとは思っていなかった。
あの箱は、減らすか、捨てるか、どちらかだと思っていた。
この箱を、娘に渡すことになる。
渡すときに、何と言うかは、決めていない。
開けなくていい、と言うと思う。
言われた娘は、たぶん、開けない。
娘は、母に似ている。
似ているところは、こういうところだ。
開けないまま、持っているだろう。
持っているあいだ、その箱には、中身がある。
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