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三十四冊

閉じたまま、白紙だったこと

三十四冊

朗読で聴く

第一章 棚に並んでいるもの

五十八になった。

駅前で、クリーニングの取次の店を三十年やった。

去年の暮れに、たたんだ。

自分で洗うのではない。

預かって、工場に出して、戻ってきたものを渡す。

それだけの店だ。

朝の八時から、夜の七時まで。

休みは、日曜だけだった。

夫は、別の仕事をしていた。

店に出たことは、数えるほどしかない。

こちらは、三十年、ほとんど一人で店にいた。

一人でいると、人の言うことがよく耳に入る。

店の奥の棚に、帳面が並んでいる。

三十四冊ある。

大学ノートだ。

表紙に、年だけ書いてある。

中身は、売上ではない。

売上は、別の帳面につけていた。

この三十四冊には、その日に来た人のことが書いてある。

誰が来て、何と言ったか。

一日に、いちぎょうか、二行だ。

書いたのは、店を開けた年からだ。

二十八のときに始めた。

なぜ始めたのかは、思い出せない。

初めのいちぎょうは、覚えている。

四月一日。晴れ。お客さん、七人。

その次の日から、人数を書くのをやめた。

人数のかわりに、名前を書くようになった。

書くようになった日のことは、覚えていない。

第二章 見せない

この帳面のことは、誰にも言っていない。

夫にも言っていない。

夫は、去年まで、あれを売上の帳面だと思っていた。

娘は、小さいころ、何度か聞いた。

お母さん、それ何。

こちらは、何でもない、と答えた。

何でもないものを、毎日、店じまいのあとに書いていた。

娘は、大きくなってからは聞かなくなった。

高校のころ、一度だけ、勝手に見ようとした。

こちらは、強い声で止めた。

止めたあと、自分の声の大きさに驚いた。

聞かなくなったのは、こちらが答えないと分かったからだ。

見せない理由は、はっきりしている。

人のことが書いてあるからだ。

お客さんが、待っているあいだに言ったことだ。

言った人は、書かれているとは思っていない。

だから、見せられない。

もう一つ、理由がある。

書いたものを人が読むと、こちらがどう思ったかも読まれる。

書いていないことまで、読む人は読む。

読まれるのが、いやだった。

そう思って、三十年、棚に置いた。

置いただけで、こちらも読み返していない。

書いて、閉じて、棚に上げる。

次の日に、次の一冊を出すのではない。

同じ一冊を、一年使う。

一年たつと、新しいのを買ってくる。

古いのは、棚の左から順に並べる。

第三章 閉じたまま

三十年、一度も読み返していない。

これは、あとから気づいたことだ。

書いているときは、毎日開けている。

開けて、いちぎょう書いて、閉じる。

閉じたら、それで終わりだ。

前のページを見ない。

見ないのは、決めていたからではない。

見る用事が無い。

用事が無いことは、しない。

しないことが三十年続くと、そこは無かったことになる。

三十四冊は、棚の上の、目の高さのところにある。

のれんを出しに行くとき、必ず通る。

通るので、毎日見る。

無かったことにはならなかった。

棚に、ずっと見えていたからだ。

毎日、あの棚を見ていた。

見ていたのに、開けなかった。

開けないでいるうちに、中身が分からなくなった。

自分が書いたものなのに、何が書いてあるか分からない。

分からないものを、三十年、店に置いていた。

いまの店のことは、いくらでも思い出せる。

去年のことも、おととしのことも出てくる。

十年前の三月に誰が来たかは、出てこない。

出てこないところを、あの棚が持っていた。

持っていることだけ知っていて、中は知らない。

第四章 開いた日

店をたたむ日、荷物を出した。

棚のものも、全部下ろした。

娘が手伝いに来ていた。

三十二だ。

娘が、その三十四冊を見つけた。

段ボールに入れようとして、手に取った。

これ、何。

こちらは、答えなかった。

娘は、一冊を取って、めくった。

止めようとして、止めなかった。

娘が、声を出して読んだ。

四月十二日。雨。

橋本さんが来た。

こちらは、それを聞いて、何とも言えなくなった。

覚えていない日だ。

橋本さんは、覚えている。

十年以上前に亡くなった人だ。

娘は、次のページも読んだ。

四月十三日。雨。

誰も来なかった。

そのあと、しばらく二人で黙っていた。

娘は、三冊めを開けようとして、やめた。

読んでいい、と聞かれた。

こちらは、いい、と答えた。

答えてから、自分でも驚いた。

三十年、誰にも見せないと思っていたものだ。

見せないと思っていたのに、聞かれたら、すぐに、いい、と言った。

第五章 中身

その晩、こちらは、三十四冊を全部開いた。

初めてだ。

開いて、分かったことがある。

中身が、薄い。

ほとんどの日が、いちぎょうだ。

日付と、天気と、名前だけ。

その人が何と言ったかは、書いていない日のほうが多い。

誰も来なかった、と書いてある日が、数えるほどではない。

雨の日が多い。

何か言われて、書こうとして、名前だけで止まっている。

止めたのは、こちらだ。

書くと、その人のことになる。

名前だけなら、まだこちらのものだ。

三十年、そこで止めていた。

こちらは、人のことが書いてあるから見せられない、と思っていた。

書いてあるのは、人のことではない。

名前と、天気だ。

見せられなかったのは、中身が無いのを知られたくなかったからだ。

中身が無いとは、思っていなかった。

思っていなかったのは、開けなかったからだ。

開けないでおくと、中身は、自分の思ったとおりでいられる。

三十年、こちらは「人に言えないものを持っている人」でいた。

持っていたのは、名前の並んだ紙だ。

名前の並んだ紙は、それでも紙だ。

紙には、何かが書いてあることになっている。

書いてあることにしていたのは、こちらだ。

エピローグ

娘は、三十四冊を読んだ。

二日かかった。

読み終えて、こう言った。

お母さん、これ、全部の人の名前があるよ。

三十年ぶんの、この町の人。

私、半分くらい知ってる。

もういない人も、たくさんいるね。

こちらは、中身が無いと言った。

娘は、首を振った。

名前があるのが中身だよ、と言った。

書いてあることが中身だと思ってたでしょ。

毎日、閉めたあとに開いて、いちぎょう書いて、閉じた。

それを三十年やった人がいる、ってことのほうが、中身だよ。

こちらは、そうかもしれない、と答えた。

答えたが、まだ分かっていない。

分かっていないほうが、たぶん本当だ。

帳面は、家に持ってきた。

押し入れの上に置いてある。

新しい一冊は、買っていない。

店が無いので、書くことも無い。

書くことが無いというより、書く形が無くなった。

毎晩の、あの十秒が無くなった。

十秒だと思う。

いちぎょう書くのに、それくらいしかかからない。

形が無いと、いちぎょうも出てこない。

三十年、形のほうが書かせていた。

書いていたのは、こちらではなかったのかもしれない。

娘が、一冊だけ貸してほしいと言った。

どれでもいい、と言ったら、いちばん古いのを持っていった。

二十八の年のものだ。

開いたことのある人が、いま二人になった。

二人めが、こちらではないのが、おかしい。

いちばん古い一冊を、こちらはまだ読んでいない。

ソウルミッション358

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