開けない引き出し
閉じたまま、白紙だったこと

朗読で聴く
第一章 鍵
六十七になった。
父が死んで、十九年になる。
父は八十一で、寝たきりにはならずに死んだ。
この家は父が建てた家で、こちらが継いだ。
仏間に、父の机がある。
古い木の机だ。
右側に、引き出しが三つある。
上の二つは、開けてある。
鉛筆と、はさみと、判子が入っている。
いちばん下の一つだけ、鍵がかかっている。
鍵は、父の財布に入っていた。
いまは、こちらが持っている。
十九年、開けていない。
父は、死ぬ半年ほど前に、一度だけ言った。
あの引き出しは、おれが死んだら見ろ。
それだけだ。
中に何があるかは、言わなかった。
こちらも、聞かなかった。
聞くと、いまここで話が終わる気がした。
父が死んで、法事が済んで、それから開けようと思った。
思ったが、開けなかった。
第二章 開けなかった理由
最初の年は、まだ気持ちが落ち着かないからだと思っていた。
二年めは、忙しかった。
三年めは、忘れていた。
忘れていた、というのは、たぶん正しくない。
命日には、毎年、その机を拭く。
拭くときに、引き出しの取っ手に手が触れる。
触れるので、忘れてはいない。
五年めに、はっきり分かったことがある。
開けると、中身が決まってしまう。
決まっていないあいだは、いくらでも置いておける。
父が何を考えていたか。
父がこちらをどう思っていたか。
開けなければ、それは、まだ答えの出ていない問いだ。
答えの出ていない問いは、持っていられる。
答えが出ると、持っていられない。
もし中に、こちらの知らない父がいたら。
もし中に、何も無かったら。
どちらも、こまる。
十九年のあいだに、中身をいくつも考えた。
こちらに宛てた手紙かもしれない。
土地の権利のことかもしれない。
母の知らない誰かの写真かもしれない。
どれも、あり得ると思った。
あり得ると思えるあいだは、どれでもある。
こまるというのは、こちらの都合だ。
父の都合ではない。
父は「見ろ」と言った。
言われたことを、十九年、していない。
第三章 拭く
命日に机を拭くのは、こちらの役目だ。
妻は、仏壇のほうをやる。
机は、こちらが拭く。
布で、上から順に拭く。
いちばん下の引き出しも、同じように拭く。
開けないが、拭く。
取っ手のところだけ、色が違う。
ほかは、拭いても木の色のままだ。
取っ手だけ、手のあぶらで黒くなっている。
開けていないのに、そこだけ人の手の跡がある。
拭いていると、手が止まる年がある。
止まったまま、しばらく取っ手を見ている。
見ても、開けない。
妻は、そのことを知っている。
一度だけ、聞かれた。
開けないの。
こちらは、そのうち、と答えた。
そのうち、と十九年言った。
妻は、それ以上は聞かなかった。
聞かれた年は、五年めだったと思う。
そのあとは、一度も聞かれていない。
聞かないでいてくれた、と思う。
息子は、この家にはいない。
三十八で、車で二時間のところにいる。
息子は、引き出しのことを知らない。
知らないというより、言っていない。
言うと、開けることになる。
一度、正月に息子が帰ってきたとき、机の前にいたことがある。
こちらは、台所から見ていた。
息子は、引き出しに手を伸ばさなかった。
伸ばさなかったのは、鍵のことを知らないからだ。
知らないものは、開けようともしない。
第四章 開けた
去年の秋、家を建て替えることになった。
風呂と台所が、もう直せないところまで来ていた。
机は残すつもりだったが、動かさなければならない。
動かす前に、こちらは鍵を出した。
十九年ぶりに、引き出しを開けた。
中に、二つあった。
父の万年筆が、一本。
帳面が、一冊。
大学ノートだ。
表紙に、何も書いていない。
開いた。
一ページめは、白紙だった。
めくった。
二ページめも、白紙だ。
最後まで、めくった。
いちぎょうも書いていない。
買ったままのノートだった。
万年筆には、インクが入っていた。
乾いて、固まっていた。
こちらは、しばらく座っていた。
何かの間違いかと思って、引き出しの奥を探した。
奥にも、何も無かった。
そのあと、ノートをもう一度、初めからめくった。
紙の色が、少し焼けていた。
焼けているのは、長いあいだ、そこにあったからだ。
書かれていないまま、二十年以上、そこにあった。
第五章 母の言ったこと
母は、施設にいる。
九十一で、耳は遠いが、話は分かる。
次の週に、会いに行った。
引き出しのことを話した。
母は、ああ、と言った。
驚かなかった。
それから、こう言った。
お父さん、あれ、書こうとしてたのよ。
あんたが大学に行った年に、ノートと万年筆を買ってきた。
何書くのって聞いたら、そのうち書く、って。
そのうち、って十何年言ってた。
こちらは、母の顔を見た。
母は、続けた。
書けないまま、置いてたの。
私も一度、聞いたことがある。
何を書くの、って。
そしたら、決まってない、って言った。
置いてあるのは、私も知ってた。
鍵かけたのは、書いてないのを見られたくなかったからだと思う。
こちらは、自分が「そのうち」と十九年言っていたことを思った。
父は「そのうち」と十何年言った。
同じ言い方をしていた。
父が言った「死んだら見ろ」は、見せるためではない。
死ぬまでには書く、という意味だった。
書かないまま死んだので、言ったことだけが残った。
残った言葉を、こちらは遺言だと思っていた。
遺言の中身は、白紙だ。
白紙を十九年、開けないでいた。
帰りの車の中で、こちらは、笑ってしまった。
笑ってから、そうではないと思った。
父は、書けなかったのではない。
書こうとして、十何年、毎年その引き出しを見ていたはずだ。
見ていたことは、書いたことにはならない。
ならないが、無かったことにもならない。
エピローグ
ノートは、新しい家に持ってきた。
万年筆も、一緒に持ってきた。
インクは、入れ替えた。
書けるようになった。
書いていない。
いちぎょうも書いていない。
書こうとして、机の前に座った日が、二度ある。
二度とも、何も書かずに閉じた。
何を書けばいいのか、分からない。
分からないのは、書きたいことが無いからではない。
書くと、決まってしまうからだ。
父と同じことを、こちらがしている。
同じことをしていると分かっても、やめられない。
このノートは、引き出しにしまってある。
新しい机には、鍵が付いていない。
鍵をかけないでも、誰も開けない。
息子には、まだ言っていない。
言えば、息子は開けるだろう。
開けて、白紙を見るだろう。
白紙を見たら、息子は何か思う。
何を思うかは、こちらには決められない。
決められないものを、渡すことになる。
渡すのが、こわいわけではない。
渡したあとで、こちらが説明できないのが、こわい。
父も、説明できなかったのだと思う。
説明できないものを、鍵のかかるところに置いた。
置いてあるあいだは、まだ書く途中でいられる。
書く途中のものは、失敗ではない。
閉じておくと、失敗にならない。
十九年、こちらは父の失敗を守っていたのではない。
父が、失敗にしないで済むようにしていた。
いまは、こちらの番だ。
番というのは、順番のことだ。
父から来て、こちらで止まっている。
止まっているあいだは、まだ途中だ。
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