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上がらない階段

空けておいた側は、一度も使われなかったこと

上がらない階段

朗読で聴く

第一章 二階

六十八になった。

この家を建てたのは、三十八のときだ。

三十年ローンを、六十八で終えた。

終えた年に、妻が死んだ。

六十六で見つかって、二年だった。

妻は、最後の半年、一階の部屋にいた。

階段を上がれなくなったからだ。

それまでは、月に一度、二階の窓を開けていた。

二階がある。

六畳が二つと、納戸が一つ。

子どもの部屋にするつもりだった。

子どもは、できなかった。

できないと分かったのは、四十二のころだ。

病院で、二人で聞いた。

帰りの車で、どちらも何も言わなかった。

家に着いて、妻が「二階、どうする」と聞いた。

こちらは、そのままでいい、と答えた。

妻も、そうね、と言った。

それが、この家で二階の話をした最後だ。

分かってからも、二階はそのままにした。

布団を敷けば、誰かが泊まれる。

机を置けば、誰かが使える。

そう思って、空けておいた。

空けておく、というのは、便利な言い方だ。

片づけないことも、使わないことも、それで言える。

こちらは三十年、その言い方を使った。

三十年、誰も泊まらなかった。

誰も使わなかった。

泊まりに来そうな人は、何人かいた。

妻の母が、一度だけ「泊まろうかしら」と言った。

言っただけで、帰った。

こちらは、引き止めなかった。

引き止めると、布団を出すことになる。

布団を出すと、その部屋が使われた部屋になる。

そう考えたわけではない。

考えなかったから、引き止めなかった。

第二章 上がらなくなった

最初の何年かは、上がっていた。

窓を開けて、風を通す。

掃除機をかける。

妻がやっていた。

やっているところを、こちらは何度か見ている。

窓を開けて、しばらく立っていた。

何をしているのか聞いたことは、無い。

こちらも、年に何度か手伝った。

五十を過ぎたころから、回数が減った。

減った理由は、思い出せない。

急に減ったのではない。

今年はやらなかった、が続いた。

続いたものは、決めたことにならない。

決めていないので、やめた覚えも無い。

やめた覚えが無いことは、まだ続いていることになる。

三十年、まだ続いていることになっていた。

六十のころには、年に一度になった。

妻が死んでからは、上がっていない。

八年になる。

窓は、閉まったままだ。

雨戸も閉めてある。

外から見ると、二階だけ暗い。

近所の人は、何も言わない。

言われたことは、一度も無い。

第三章 階段の減り方

去年の暮れに、階段を直した。

三段目が、少しきしむようになった。

大工が来て、見ていった。

その人が、面白いことを言った。

この階段、右だけ減ってますね。

こちらは、意味が分からなかった。

その人は、しゃがんで指をさした。

手すりのある右側が、白くなっている。

左側は、木の色のままだ。

上がる人も下りる人も、みんな右を踏むんです。

左は、踏まれない。

三十年で、これだけ差が出ます。

こちらは、しゃがんで見た。

境目が、一本、まっすぐ引かれている。

指でなぞると、段差は無い。

色だけが違う。

白いほうは、手あかと足で磨かれた色だ。

木の色のほうは、塗ったままの色だ。

右は減って、左は新品と同じだった。

大工は、直すのは三段目だけでいいと言った。

ほかは、まだもつという。

右がこれだけ減っていても、まだもつ。

もつのは、左が減っていないからだ。

片側が残っていると、板は割れない。

そう言われて、こちらは黙った。

片側が残っているともつ、というのは、板の話だ。

板の話として聞いた。

家に帰ってから、板の話ではない気がしてきた。

第四章 左側

その晩、こちらは、階段の写真を撮った。

明かりをつけて、上から見た。

右の白い帯と、左の木の色。

境目は、はっきりしている。

左側は、三十年、踏まれていない。

踏まれていないから、減っていない。

減っていないというのは、新しいということだ。

三十年たっても新しい。

それを見ていて、二階のことを思った。

二階も、同じだ。

使わなかったから、新しいままだ。

畳も、壁も、建てた年のままだろう。

使っていたら、減っていた。

減っていたら、直していた。

直していたら、いまの形ではない。

いまの形というのは、三十八のときの形だ。

こちらだけが、六十八になった。

二階は、三十八のままでいる。

同じ家の中で、年の取り方が二つある。

第五章 妹の言ったこと

春に、妹が来た。

六十三だ。

遠い町から、年に一度来る。

泊まらない。

日帰りで帰る。

こちらは、そのとき初めて聞いた。

どうして泊まらないのか。

妹は、少し黙ってから言った。

二階、使ってないでしょう。

使ってない部屋に泊まると、自分が最初になる。

最初になるのが、こわい。

こちらは、意味を聞き返した。

妹は、こう言った。

兄さん、あの部屋、誰かのために空けてたでしょう。

その誰かが私だと、決まってないもの。

決まっていたら、泊まってた。

決まってないから、泊まれない。

決まってない場所に入ると、決めたことになる。

だから、階段の下までしか行かない。

こちらは、それを聞いて、謝ろうとした。

妹は、手を振って止めた。

謝られると、こっちが悪いみたいになる、と言った。

兄さんが空けてたのは、やさしさだよ。

やさしさだけど、入れない。

入れないやさしさっていうのが、ある。

妹はそのあと、庭の話をした。

こちらも、庭の話をした。

二階の話は、それきりだ。

エピローグ

二階には、まだ上がっていない。

上がろうとして、三段目で止まったことが二度ある。

止まった理由は、うまく言えない。

空けておいた、と三十年思っていた。

空けておいたのは、本当だ。

ただ、空けておく、というのは、使わないということだ。

使わない場所を、三十年持っていた。

持っていたあいだ、その場所は減らなかった。

減らないものは、渡せない。

妹は、階段の下までしか来ない。

来ないでいてくれる、とも言える。

左側が新しいままなのは、誰かが右だけを踏んだからだ。

右だけを踏むと、左が残る。

残った左は、誰のものでもない。

誰のものでもない側を、三十年、家の中に持っていた。

持っているあいだ、こちらはそれを「余裕」と呼んでいた。

余裕というのは、まだ使える場所があるということだ。

使える場所と、使わない場所は、外から見ると同じに見える。

中にいる人にも、同じに見える。

三十年たって、はじめて違いが出た。

違いは、減ったか減っていないかだった。

持っていたことが、悪いとは思わない。

思わないが、使われることは、もう無いだろう。

階段の右は、まだ減っていく。

左は、このままだ。

この家は、たぶんこちらで終わる。

終わったあと、誰かが入る。

入った人は、左が新しいことに気づかないだろう。

気づかないほうがいい。

気づかれないまま踏まれて、減っていけばいい。

減るのは、使われるということだ。

使われたものだけが、減る。

こちらは、減った右側のほうを、いまは見ている。

ソウルミッション358

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