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本番の日

どこにも、力点が無かったこと

本番の日

朗読で聴く

第一章 三十四年

六十二になった。

三月で、仕事を辞めた。

町の印刷屋に、三十四年いた。

封筒、名刺、町内会の回覧、葬式の会葬礼状。

会葬礼状は、急ぎの仕事だ。

夜に電話が来て、朝までに刷る。

三十四年で、何百枚も刷った。

急ぎだが、急いだようには見えないように刷る。

急いで刷ったものは、受け取った人に分かる。

小さい仕事ばかりだ。

大きい仕事は、来なかった。

隣町の大きい印刷会社には、行かなかった。

二十代のころ、来ないかと言われたことがある。

断った。

断った理由は、いまも言葉にできない。

そこへ行くと、毎日が本番になる気がした。

来ないので、待っていた。

入ったころ、先輩に言われたことがある。

この仕事は、いつか本番が来る。

そのときに、全部を出すんだ。

こちらは、その言葉を、三十四年覚えていた。

その先輩は、こちらが三十のときに辞めた。

辞めるとき、本番のことは、何も言わなかった。

こちらも、聞かなかった。

覚えていたので、毎日の仕事では、全部を出さなかった。

出さないというより、取っておいた。

取っておいた分は、本番のためのものだ。

本番は、来なかった。

来なかった、というのは、正確ではない。

大きい仕事が来なかっただけだ。

仕事は、毎日あった。

毎日あるものを、本番とは呼んでいなかった。

呼ばなかったのは、こちらの決め方だ。

第二章 取っておいた分

封筒の刷りは、だいたい同じだ。

町内会の回覧も、毎月同じ形だ。

名刺は、二百枚で一つの箱になる。

こちらは、それを、ていねいにやった。

ていねいだが、全部ではない。

八割くらいだと思う。

八割で、文句は出ない。

文句が出ないので、八割でいい。

文句が出るのは、七割を切ったときだ。

七割と八割の差は、見ても分からない。

分からないところで、こちらは線を引いていた。

残りの二割は、どこにあるのか。

こちらの中に、置いてあった。

置いてある二割が、自分の値打ちだと思っていた。

まだ出していない分があるのだから、こんなものではない。

そう思うと、毎日が楽になる。

毎日が楽になるというのは、毎日が軽くなるということだ。

軽くしていたのは、こちらだ。

八割というのは、測ったものではない。

こういう感じ、というだけだ。

だから、本当に八割だったかも分からない。

九割だったかもしれない。

分からないほうが、都合がよかった。

残りがあることにしておけば、まだ先があることになる。

第三章 辞める日

三月の終わりに、辞めた。

最後の日は、ふつうの日だった。

朝に来て、封筒を刷って、掃除をして、帰った。

送別の会は、断った。

断ったのは、照れくさかったからだ。

あとから、違うと思った。

照れくさかったのではない。

最後の日を、本番にしたくなかった。

本番にすると、終わりがはっきりする。

はっきりすると、比べられる。

三十四年ぶんが、その一日と比べられる。

本番にすると、全部を出すことになる。

全部を出して、それが八割の日と変わらなかったら、こまる。

こまるので、ふつうの日にした。

帰るとき、社長が言った。

三十四年、同じでしたね。

こちらは、それを、ほめ言葉ではないと受け取った。

社長は、七十二だ。

その人も、三十四年、同じことを言っていた。

朝に、おはよう、と言う。

帰りに、お疲れさん、と言う。

それだけの人だった。

ほめもしないし、怒りもしない。

同じ調子の人のことを、こちらは、何も考えていないと思っていた。

第四章 息子の話

息子が一人いる。

三十五だ。

別の町で、看板を作る仕事をしている。

五月に来たときに、その話をした。

三十四年、同じでしたね、と言われた、と。

息子は、笑わなかった。

しばらく考えて、こう言った。

父さんの封筒、俺、使ってた。

こちらは、覚えていなかった。

息子は続けた。

高校のとき、願書を出す封筒。

母さんが、父さんの店の封筒をくれた。

開けたら、折り目がぴったりだった。

だから、俺、今も封筒はぴったり折る。

その話は、初めて聞いた。

封筒の折り目は、機械で折る。

機械で折ると、ぴったりになる。

ぴったりにするには、紙を入れる向きをそろえる。

そろえるのは、手だ。

こちらは、それを毎日やっていた。

毎日やっていたので、特別だと思っていない。

特別だと思っていないものが、渡っていた。

第五章 どこにも力点は無かった

その晩、こちらは、長く考えた。

息子が見たのは、ふつうの日の封筒だ。

本番の封筒ではない。

こちらが八割でやったと思っている日の、一枚だ。

その一枚が、十九年、息子の手に残っている。

残っているのは、紙ではない。

折り方だ。

紙は、とっくに捨てている。

こちらは、本番を待っていた。

本番というのは、力点のことだ。

ここだけは、という一点を作りたかった。

作らないと、三十四年が平らになる。

平らなものは、値打ちが無いと思っていた。

山があるから、絵になる。

山が無いものは、絵にならない。

絵にならないものを、こちらは値打ちが無いと呼んでいた。

呼び方の問題だったのかもしれない。

違った。

三十四年は、どこも同じ圧で刷っていた。

どこも強くない。

どこも、先に見てくれ、と言わない。

そういう三十四年のどこか一枚が、息子の手に入った。

どの一枚でもよかった。

どれも同じだったからだ。

同じだったことが、渡った理由だ。

力点があると、そこだけが渡る。

力点が無いと、どこでも渡る。

どこでも渡るほうが、たぶん、数は多い。

多いが、渡したほうには見えない。

見えないので、渡していないことになる。

エピローグ

家に、封筒の束がある。

辞めるときに、失敗した分をもらってきた。

刷りがずれたものや、紙が足りなかったものだ。

見ると、ずれ方が、どれも同じくらいだ。

ひどいものも、うまいものも無い。

そこそこの失敗が、束になっている。

束は、厚さが十センチくらいある。

三十四年で、これだけだ。

これだけしか失敗していない、とも言える。

こちらは、それを見て、少し笑った。

三十四年、こういうものを作っていた。

取っておいた二割は、いまも出していない。

出す場所は、たぶん、もう無い。

無いが、こまらなくなった。

二割は、置いておくものだったのだと思う。

置いてあると、毎日が軽くなる。

軽い毎日を三十四年続けると、何かが一枚ずつ出ていく。

出ていった先で、折り目がぴったりだと言われる。

言われたことは、こちらには聞こえない。

十九年たって、たまたま聞こえた。

たまたま聞こえなければ、無かったことになっていた。

息子には、そのことを言わなかった。

言うと、息子が気を使う。

気を使わせると、次からは言わなくなる。

言わないままにしておくほうが、また聞こえるかもしれない。

聞こえなくても、渡ってはいる。

渡っていることにしておく。

三十四年、そうやって出ていった。

封筒も、名刺も、回覧も、礼状も、出ていった先は分からない。

分からないところで、誰かが開けている。

開けたときに、何も思わない人のほうが多いだろう。

思わなくていい。

同じ圧で刷ったものは、思わせるために作っていない。

ソウルミッション358

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