作業台
物には、何の跡も残っていなかったこと

朗読で聴く
第一章 印をつける人
六十四になった。
アメリカの、小さな町に住んでいる。
高校で、木工を教えていた。
二十八年やって、六十二で辞めた。
妻は、六年前に死んだ。
子どもは、いない。
教室は、校舎の北の端にある。
窓のない、広い部屋だ。
真ん中に、作業台が十二、並んでいる。
どの台も、天板が厚い。
傷だらけになるはずの天板だ。
削り直すので、傷は残らない。
年に一度、夏休みに、こちらが全部削り直していた。
どれも同じ大きさで、同じ木でできている。
こちらは、印をつける人だった。
自分の道具には、全部、印を彫った。
持ち手の端に、小さなしるしを一つ。
名前ではない。
線を二本、交差させただけのものだ。
父から教わった形ではない。
自分で考えた。
十九のとき、最初の鑿を買った日に、彫った。
彫るときに手が震えて、線が少し曲がった。
その曲がりが、今も残っている。
曲がっているので、真似はされない。
真似されないものを、印にした。
二十のころから、そうしていた。
自分のものだと分かるようにする、というのが理由だった。
理由は、半分は本当だ。
もう半分は、残したかったからだと思う。
自分がここにいたことを、物に彫っておきたかった。
誰かに見せるためではない。
見せるなら、見えるところに彫る。
見えないところに彫っていた。
見えないところにあるほうが、長く残る気がした。
第二章 教室の作業台
教室の作業台にも、彫った。
十二台、全部の脚の内側に、同じしるしを入れた。
入れたのは、三十年前だ。
赴任して二年めだった。
誰にも言わなかった。
見えない場所だから、誰も気づかない。
二十八年、そこにあった。
生徒が卒業していくたびに、こちらは脚のしるしを思った。
ここにいた証拠がある、と思った。
それで、続けられた。
生徒は、三年で出ていく。
出ていったあとは、ほとんど会わない。
教えたものが残っているかどうかも、分からない。
分からないので、こちらは脚のしるしを数えていた。
十二台ぶん、確かにある。
それだけが、数えられるものだった。
辞める前の年に、学校が改修をした。
木工室も、入れ替えになった。
古い作業台は、全部、外に出された。
新しいのは、金属の脚のものだ。
こちらは、外に出された台を見に行った。
脚の内側を、一つずつ見た。
しるしは、あった。
あったが、台は捨てられた。
業者が持っていった。
止めなかった。
止める理由を、人に説明できない。
脚の内側に線が彫ってあります、とは言えない。
言えば、笑われるか、心配される。
その日、こちらは校舎の前に立って、車が出ていくのを見ていた。
三十年ぶんが、一度に出ていった。
第三章 道具のほう
辞めてから、家の道具を整理した。
自分の道具は、全部残っている。
鑿も、鉋も、罫引きも。
どれにも、しるしが彫ってある。
三十年、四十年前のものだ。
彫ったところを、指でなぞった。
なぞって、思った。
このしるしを、誰が見るのか。
こちらが死んだら、道具は売られるか、捨てられる。
買った人は、しるしを見るだろう。
誰のものか分からない線を、二本見るだけだ。
何も伝わらない。
伝わらないものを、四十年、彫っていた。
彫っているあいだは、伝わると思っていた。
伝える相手を、決めていなかった。
その晩、こちらは、眠れなかった。
残したつもりのものが、全部、消えるところだった。
物は、持ち主を覚えない。
持ち主が彫っても、彫った線を覚えているわけではない。
線は、木が減ったところだ。
減ったところが、たまたま形になっている。
それだけのものだ。
四十年かけて、木を少し減らした。
第四章 教え子から来たもの
春に、手紙が来た。
十九年前の教え子だ。
いまは、家具を作っているという。
手紙には、こう書いてあった。
先生に教わったやり方で、いまも作っています。
こちらは、思い出せなかった。
名前は覚えている。
何を教えたかは、覚えていない。
夏に、その人の仕事場を訪ねた。
車で二時間の町だ。
仕事場に入って、こちらは、足が止まった。
その人が、鑿を持っていた。
持ち方が、こちらと同じだった。
親指を持ち手の背に当てて、人差し指を側面に沿わせる。
教わった、と本人は言わなかった。
本人は、気づいていない。
こちらは、しばらく黙って見ていた。
その人は、二十分ほど、手を止めずに削った。
途中で一度、鑿を置いて、上を見た。
仕事場の梁の高さを見る癖だ。
それも、こちらの癖だった。
自分の癖だと、こちらも今まで思っていた。
第五章 彫らなかったほう
その人の道具には、しるしが無かった。
きれいな持ち手だ。
こちらは、聞いた。
道具に、印をつけないのか。
その人は、つけません、と言った。
なぜ、と聞くと、こう答えた。
道具は、いつか誰かが使うので。
こちらは、何も言えなかった。
言えなかったのは、正しいと思ったからだ。
正しいと思ったことが、自分のやってきたことの反対だった。
帰りの車で、ずっと考えていた。
こちらが物に彫った四十年は、全部消える。
消えないものが、一つあった。
鑿の持ち方だ。
こちらは、それを教えた覚えがない。
やって見せただけだ。
やって見せたものが、十九年たって、二時間離れた町で動いている。
物には、何も残らなかった。
残ったのは、彫らなかったほうだ。
こちらが残そうとしたものは残らず、残そうと思わなかったものが残った。
残そうと思うと、物に向かう。
物は、預かってくれない。
預かるのは、人だ。
人は、預かったことを覚えていない。
覚えていないまま、手が動く。
エピローグ
道具は、そのままにしてある。
しるしを削る気は、無い。
削ると、消したことになる。
彫ったのは本当だから、そのままにしておく。
ただ、去年から、新しく買った道具には彫っていない。
持ち手は、むきだしのままだ。
むきだしの持ち手を見ると、少し落ち着かない。
落ち着かないのは、こちらの都合だ。
道具の都合ではない。
町の高校に、月に二度、教えに行っている。
頼まれて、始めた。
教えるときは、言わずに、やって見せる。
見せると、見ている人の手が動く。
動いた手のことを、本人は覚えていない。
覚えていないほうが、長く続く。
覚えていると、真似をしていることになる。
真似ではなく、本人のやり方になったとき、初めて残る。
残ったとき、そこにこちらの名前は無い。
名前が無くても、動いている。
動いているほうが、彫った線より長い。
線は木が減ったところで、減ったところは、いつか無くなる。
手の動きは、次の人に渡ると、また動き出す。
渡るときに、名前は付いてこない。
付いてこないので、渡る。
無いほうが、残る。
教え子の手紙は、机の引き出しに入れてある。
読み返すのは、年に二度くらいだ。
読み返すたびに、同じところで止まる。
先生に教わったやり方で、いまも作っています。
教わった、と書いてある。
こちらは、教えた覚えがない。
覚えがないもののほうが、渡っていた。
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