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手すり

物には、何の跡も残っていなかったこと

手すり

朗読で聴く

第一章 三十年の家

五十七になった。

母は、この春に、八十四で死んだ。

父は、十九年前に死んでいる。

母は、そのあと十九年、一人で住んでいた。

家は、古い木造だ。

建てたのは、母が二十七のときだと聞いている。

こちらは、この家で生まれた。

十八で出て、それきり住んでいない。

弟が一人いるが、遠い町にいる。

家のことは、こちらがやることになっていた。

決めたわけではない。

近いほうがやる、というだけだ。

二階への階段が急で、幅がせまい。

三十年ほど前に、父が手すりを付けた。

木の手すりだ。

太さは、握ってちょうどの太さだ。

父は、木を選ぶのに一日かけたと母が言っていた。

階段の右側に、まっすぐ一本。

母は、それを毎日つかんだ。

上がるとき、下りるとき。

一日に何度も、つかんだ。

最後の数年は、ほとんど二階に行かなかった。

それでも、朝に一度、上がっていた。

仏壇が、二階にあるからだ。

三十年、毎日だ。

母は、仏壇のことを、一度も話さなかった。

毎朝上がっていることも、言わなかった。

こちらが知ったのは、去年、泊まったときだ。

朝の五時に、階段の音がした。

起きて見にいくと、母が二階から下りてくるところだった。

どうしたの、と聞いたら、なんでもない、と言った。

夏に、家を片づけた。

売る話が出ていたので、中のものを出した。

第二章 新しいまま

階段を、何度も上がって、下りた。

荷物を運ぶためだ。

そのとき、手すりを見た。

つかんだ。

こちらの手が、そこにぴたりと収まった。

握りやすい、と思った。

思ってから、母も同じところを握っていたのだと気づいた。

収まってから、おかしいと思った。

木が、新しい。

三十年つかまれた木だ。

黒くなっているはずだ。

手の脂で、つやが出ているはずだ。

そういう手すりを、こちらは見たことがある。

駅の階段の手すりが、そうだ。

つかむところだけが、色が違う。

母の家の手すりには、それが無い。

どこも同じ色だ。

木の目が、そのまま見える。

端から端まで、同じ明るさだ。

こちらは、両方の手でこすった。

ざらざらしている。

油気が、まったく無い。

端のほうも見た。

付け根の金具のところも見た。

金具のまわりは、ほこりが溜まりやすい。

溜まっていなかった。

ねじの頭まで、きれいだった。

第三章 三十年は、どこへ

その晩、家に帰ってから、考えた。

母は、本当に毎日つかんでいたのか。

つかんでいた。

こちらは、それを何度も見ている。

右手で手すりを持ち、体を引き上げるようにして上がる。

膝が悪くなってからは、一段ごとに止まった。

見ていたのに、木には何も無い。

三十年が、どこにも残っていない。

それが、こわかった。

母の三十年が、無かったことのように思えた。

人は死ぬと、家から出ていく。

家は残る。

残った家に、その人のものが何も無い。

そういうことが、あるのかと思った。

その夜は、うまく眠れなかった。

眠れないまま、母の家のことを思い出していた。

いつ行っても、台所の流しが乾いていた。

風呂場に、水のあとが無かった。

窓ガラスに、手の跡が無かった。

どれも、そういうものだと思っていた。

古い家なのに、きれいな家だと思っていた。

きれいなのは家ではない。

家をきれいにしている人がいた。

第四章 近所の人の話

次の週に、近所の人が来た。

母と三十年、行き来していた人だ。

七十代の女の人だ。

手伝いに来てくれた。

階段を上がるときに、こちらは言った。

この手すり、三十年使ったのに、きれいなままなんです。

その人は、上がりながら、こう言った。

お母さん、毎晩、拭いていたもの。

こちらは、手を止めた。

毎晩。

その人は続けた。

寝る前に、台ふきんで、上から下まで拭いていたの。

見たことがある。

わたしが遅くにお邪魔したとき、ちょうど拭いていた。

なんで毎晩拭くのって聞いたら。

娘が来たとき、気持ち悪いといけないから、って。

その人は、笑いながら言った。

毎晩来るわけじゃないのにねえ、って言ったのよ。

そしたら、お母さん、こう言ったの。

来る日は分からないから、毎日やっておくの。

第五章 消していた人

こちらは、階段の途中で、座った。

娘が来たとき。

こちらは、月に一度か二度しか来ていない。

来ない月もあった。

それでも、母は毎晩拭いていた。

三十年。

つまり、こういうことだ。

跡が無いのは、跡が付かなかったからではない。

毎晩、母が消していたからだ。

母の手の跡を、母が自分で消していた。

こちらのために消していた。

木がきれいなのは、母の三十年が無かった証拠ではない。

母の三十年が、毎晩そこにあった証拠だ。

跡が無いことが、いちばん濃い跡だった。

跡を探すとき、こちらは、付いたものを探していた。

付いたものだけが跡だと思っていた。

消した人がいる場合は、逆になる。

消し続けた三十年のほうが、付いた跡より長い。

長いほうが、見えない。

こちらは、そこに気づくのに、五十七年かかった。

もう一つ、気づいたことがある。

こちらは、その手すりを、一度も拭いたことがない。

母の家を、掃除したことがない。

来ると、話して、食べて、帰っていた。

いつもきれいだと思っていた。

きれいなのは、勝手にそうなるのだと思っていた。

勝手にきれいになる家は、無い。

誰かが毎日やっている。

やっている人が、そのことを言わないと、誰もやっていないことになる。

母は、言わない人だった。

言わなかったので、こちらは三十年、気づかなかった。

言えばよかったのに、とは思わない。

言わないでやるのが、母のやり方だった。

やり方まで、こちらが決める話ではない。

エピローグ

家は、まだ売っていない。

手すりは、外して、こちらの家に持ってきた。

長いので、物置に横にして置いてある。

どう使うかは、決めていない。

切って何かにする気には、ならない。

三十年、母の右手があったところだ。

週に一度、拭いている。

拭くのは、木のためではない。

拭くというのが、母のやっていたことだからだ。

やってみると、二分もかからない。

二分のことを、三十年やる。

一万回を超える。

一万回やっても、何も増えない。

やっても、何も残らない。

残らないように、やる。

跡が付くのは、放っておいた場合だ。

放っておかなかった人の跡は、どこにも出ない。

出ないので、見た人は「何も無い」と言う。

こちらも、そう言った。

いまは、言わない。

きれいな面を見ると、そこを拭いた人がいたのだと思う。

思うようになったのは、今年からだ。

弟に、電話で話した。

手すりのことを話すと、しばらく黙っていた。

黙ってから、俺、一度も拭いていない、と言った。

こちらも一度も拭いていない、と言った。

二人とも黙った。

それから、弟が言った。

母さん、俺たちが来る日を、毎日にしてたんだな。

そのとおりだと思った。

来る日が決まっていれば、その前の日にやればいい。

決まっていないので、毎日になる。

毎日にしたのは、こちらたちが日を決めなかったからだ。

母は、それを一度も言わなかった。

言えば、こちらが日を決めることになる。

決めさせたくなかったのだと思う。

そこまでして、跡を消していた。

ソウルミッション358

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