踏み台
物には、何の跡も残っていなかったこと

朗読で聴く
第一章 四十年の道具
六十一になった。
父は、去年の夏に、八十九で死んだ。
母は、その六年前に死んでいる。
二人とも、同じ家で死んだ。
こちらは、車で四十分のところにいる。
父は、最後まで、自分の家にいた。
建具屋だった。
戸や障子を、四十年、作っていた。
やめたのは、七十二のときだ。
やめてからの十七年は、家にいた。
十七年、仕事場には入らなかった。
鍵もかけずに、そのままにしていた。
中のものを、一つも動かさなかった。
こちらが「片づけないのか」と聞くと、いい、と言った。
いい、しか言わない人だった。
母が死んでからは、もっと言わなくなった。
秋に、家を片づけた。
兄弟はいない。
一人でやった。
仕事場は、家の横にある。
戸を開けると、木の匂いがした。
十七年、使っていないのに、匂いだけ残っていた。
中に、父の道具がある。
鉋、鑿、金づち、定規。
それから、踏み台。
こちらは、その道具を、一つずつ見た。
父の跡を、探していた。
探すつもりで来たわけではない。
箱に入れて、捨てるものと残すものを分ける。
それだけのつもりだった。
道具を一つ持ち上げたところで、手が止まった。
止まってから、探していることに気づいた。
第二章 何も無い
鉋の台は、きれいだった。
四十年使ったものだ。
減っているはずだと思った。
減っていない。
手でこすった。
つるつるしている。
傷も、へこみも、無い。
鑿の持ち手も、同じだった。
握ったところが、黒くなっていると思った。
なっていない。
定規も、まっすぐのままだ。
踏み台は、木で作ったものだ。
父が自分で作った。
いつ作ったのかは、知らない。
こちらが小さいころには、もうあった。
高さは三十センチほど。
上に立って、鴨居のところを直す台だ。
四十年、毎日のように立っていた。
上の面を、こちらは、よく見た。
足の跡を探した。
何も無かった。
木の目が、そのまま出ている。
節のところだけ、少し色が濃い。
それは最初からある色だ。
新しいものと、見分けがつかない。
こちらは、そこで、少し腹が立った。
腹が立った相手は、父ではない。
物のほうだ。
四十年いっしょにいて、何も受け取っていない。
そういう顔をして、そこにある。
しばらく、踏み台の前に座っていた。
座って、上の面を指でなぞった。
なぞっても、何も引っかからない。
第三章 消えるものだと思っていた
父の跡が、どこにも無い。
四十年やって、道具に何も残らないのか。
そう思った。
思ってから、気づいた。
こちらは、跡を探しに来たのだ。
片づけに来たのではない。
父が四十年やったことの証拠を、物に探していた。
物が覚えていてくれると思っていた。
覚えていなかった。
踏み台は、ただの木の台だ。
鉋は、ただの鉋だ。
どれも、何も言わない。
父は、道具をよく手入れする人だった。
仕事が終わると、必ず拭いた。
刃を研ぎ、油を塗った。
そういう人の道具には、跡が残らない。
跡を残さないようにしていたのだ。
道具に跡が残るのは、道具を粗末にした人の話だ。
そのことを、その日は、まだ思いつかなかった。
その日は、箱を三つ作って帰った。
残すものは、踏み台と鉋だけにした。
鉋を選んだ理由は、うまく言えない。
いちばん減っていそうな道具だったからだと思う。
減っていなかったが、持って帰った。
第四章 近所の人に言われたこと
冬に、隣の家の人が来た。
八十をいくつか過ぎた人だ。
父と六十年、隣だった。
仕事場の前で、こちらは踏み台を片づけていた。
持ち上げて、外に出したところだ。
その人が、こちらを見て、言った。
あんた、持ち方が、お父さんと同じだね。
こちらは、手を止めた。
持ち方。
踏み台の、横の板の下に指を入れて、腰で持ち上げる。
教わった覚えは、無い。
いつからそうしていたのかも、分からない。
その人は、続けて言った。
歩き方も似てる。
仕事場から出てくるとき、必ず一回、上を見るでしょう。
お父さんも、そうだった。
鴨居の高さを、見る癖だ。
こちらは、建具屋ではない。
継がなかった。
継げとも言われなかった。
市役所に三十八年いた。
それでも、上を見ていた。
役所の廊下でも、そうしていたはずだ。
三十八年、誰にも言われなかった。
言われなかったので、気づかなかった。
隣の人は、父を六十年見ていた。
六十年見た人にしか、見えないものがある。
第五章 跡の場所
その晩、こちらは、長く考えた。
道具には、何も残っていない。
残っていないのが、正しい。
父は、跡を残さないように手入れをしていた。
では、四十年は、どこへ行ったのか。
こちらの手に、来ていた。
持ち方。
上を見る癖。
物を置くとき、必ず端をそろえること。
それも父だ。
こちらは、それを自分の癖だと思っていた。
癖というのは、自分では見えない。
見えないので、自分のものだと思う。
自分のものだと思っていた。
違った。
父から来たものだ。
道具は、何も覚えない。
覚えるのは、人のほうだ。
人のほうにしか、跡は付かない。
物は、使われても減らないようにできている。
減ったら、道具として困る。
困らないように、父が手入れをしていた。
手入れとは、跡を消す仕事だ。
父は四十年、自分の跡を消していた。
消していたので、こちらは探しても見つからない。
見つからないのは、父がていねいだった証拠だ。
証拠が無いことが、証拠だった。
こちらが探していた場所が、間違っていた。
探していたものは、探しているこちらの手に付いていた。
そう思ってから、もう一つ、思い出した。
父は、こちらの仕事のことを、ほとんど聞かなかった。
役所で何をしているのか、最後まで聞かれていない。
聞かない人だと思っていた。
興味が無いのだと思っていた。
葬式のあと、隣の人が言った。
お父さん、あんたの仕事のことは、よく言ってたよ。
こちらには、一度も言わなかった。
言わないほうの人だった。
言わないので、跡が残らない。
残らないから、無かったことになる。
無かったことに、こちらがしていた。
エピローグ
踏み台は、こちらの家に持ってきた。
台所の隅に置いてある。
電球を替えるときに使う。
上の面には、いまも何も無い。
こちらが四十年立っても、たぶん何も付かない。
それでいい。
付いてほしいと思っていた自分が、まだ少しいる。
いるが、それは物に頼む話ではない。
付かないほうが、正しい。
息子が、去年、三十五になった。
正月に来たとき、台所で電球を替えた。
踏み台を、横の板の下に指を入れて、腰で持ち上げた。
こちらは、それを見た。
何も言わなかった。
言うと、本人が気にして、やめるかもしれない。
跡は、物に付かない。
人に付く。
付いたことに、付いた本人は気づかない。
気づくのは、その人を見ている、別の人だ。
父も、こちらの持ち方を、どこかで見ていたのだと思う。
見ていて、何も言わなかったのだと思う。
言わないと、跡は残らない。
残らないが、渡っている。
渡っていることに、渡した側も気づいていない。
鉋は、仕事場の棚に置いた。
使う予定は無い。
刃は、年に一度、研ぐことにした。
研ぐと、刃は少し減る。
減るのはいい。
減ったところは、こちらが研いだところだ。
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