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父の工具箱

一度置いた色は、薄められないこと

父の工具箱

朗読で聴く

第一章 継がないと言った日

五十八になった。

アメリカの、小さな町に住んでいる。

父は、去年の冬に死んだ。

八十六だった。

父は、金物屋をやっていた。

町に一軒だけの店だ。

釘、番線、ペンキ、蝶番。

父の父が始めて、父が四十年やった。

店の床は、木だった。

歩くと、決まったところで鳴った。

こちらは、その音の場所を、全部覚えている。

小さいころ、夏休みはその床にいた。

釘を大きさで分けるのが、こちらの役だった。

父は、それを、教えるとは言わなかった。

やらせて、黙って見ていた。

まちがえても、直さなかった。

夕方に、こちらが自分で気づくまで、置いておいた。

こちらは、一人息子だ。

店を継ぐものだと、町のみんなが思っていた。

父も、そう思っていた。

こちらが二十二のときだ。

夏の夕方、店の奥で、父に言われた。

来年から、こっちに入れ。

こちらは、その場で、はっきり言った。

継がない。

一度だけ、そう言った。

言い方を、やわらかくしなかった。

やわらかくすると、聞いてもらえないと思った。

父は、押しの強い人ではない。

強くないので、こちらが少しでも迷えば、父は待つ。

待たれると、断れなくなる。

それが分かっていた。

だから、迷う余地を、自分で消して言った。

父は、しばらく黙っていた。

それから、分かった、と言った。

それだけだった。

その二年後に、父は店を畳んだ。

畳む日のことは、電話で聞いた。

こちらは、その日、店に行かなかった。

行けば、こちらの一言の話になる。

ならないように、行かなかった。

第二章 取り消せない一言

店を畳んだのは、こちらのせいだ。

父は、そうは言わなかった。

一度も言わなかった。

言わないので、こちらの中に残った。

継がないと言ったあの夕方を、何度も思い出した。

もう少し、ちがう言い方があった。

考えてみる、と言ってから、一年かけて断ればよかった。

そうすれば、父は店を続けたかもしれない。

あの言い方だと、父は、終わりだと受け取る。

こちらは、それを分かっていて、あの言い方をした。

二十二のときは、通すことしか考えていなかった。

通すために、いちばん硬い言い方を選んだ。

選んだのは、こちらだ。

あの一言は、濡れたまま置かれた。

置いた瞬間に、ふちが決まった。

次の週に、父の店に行った。

あのことだけど、と言おうとした。

父は、棚の前で背中を向けたまま、言った。

もう聞いた。

それだけだった。

二度めを、聞かせてくれなかった。

こちらは、取り消せなかった。

取り消す場所を、父が閉じた。

閉じたのは、こちらのためだったのかもしれない。

そのときは、そう思えなかった。

第三章 三十六年

こちらは、町を出なかった。

配管の仕事についた。

父の店から、六つ先の通りだ。

近くにいた。

近くにいて、父に、できることを全部した。

毎週日曜に、夕飯を持っていった。

家の修理は、こちらが全部やった。

屋根、水まわり、暖房。

車の面倒も、こちらが見た。

病院の送りむかえは、三十年で数えきれない。

母が死んだあとの十四年は、ほとんど毎日行った。

父の家の鍵は、預かっていた。

冬は、朝に暖房を見に行った。

夏は、網戸を直しに行った。

金物屋の息子が、配管屋になって、父の家を直していた。

町の人は、よくできた息子だと言った。

言われるたびに、こちらは、下を見た。

よくできた息子ではない。

店を終わらせた息子だ。

町の人は、店の終わりの理由を知らない。

知らないので、ほめる。

父は、ありがとう、と言った。

こちらは、そのたびに、少し苦しかった。

やっていたことは、本当だ。

本当だが、形があった。

薄めようとする形だ。

あの一言を、こちらは、薄めたかった。

三十六年、薄めようとしていた。

薄まらなかった。

三十六年やっても、あの夕方は同じ濃さでそこにあった。

濃さが変わらないものを、こちらは毎年、塗り足していた。

第四章 工具箱

父の家の台所に、工具箱があった。

濃い赤の、鉄の箱だ。

店から持ち帰ったものだ。

店を畳んだ日に、父が一つだけ持って帰った。

中に、父の道具が入っている。

古いペンチ、ねじ回し、巻尺。

父は、それを台所に置いていた。

物置ではなく、台所だ。

毎日見るところに置いていた。

こちらは、それを、未練だと思っていた。

店をやめたことの未練だと思っていた。

見るのが、つらかった。

つらいので、こちらは、その箱に手を出さなかった。

三十六年、開けなかった。

父が何度か、開けてみろと言った。

こちらは、うん、と言って、開けなかった。

開けたら、店の話になる。

店の話になれば、あの夕方の話になる。

なるのが、こわかった。

父は、それ以上、言わなかった。

父が死んだあと、開けた。

道具の下に、紙が入っていた。

父の字だった。

鉛筆で、大きく書いてあった。

父は、字が大きい人だ。

第五章 紙に書いてあったこと

紙は、一枚だ。

店を畳んだ年の日付が入っていた。

息子は、継がないと言った。

はっきり言った。

そう書いてあった。

その次に、こう書いてあった。

はっきり言ってもらって、よかった。

こちらは、そこで手が止まった。

続きがあった。

店は、もう終わる店だった。

息子が入れば、息子の三十年が、終わる店に入る。

あの子は、やわらかく言わなかった。

やわらかく言われたら、こちらは一年、期待した。

一年期待して、それから畳んだら、あの子は一生、こちらを見る。

だから、あれでよかった。

最後に、こう書いてあった。

あの夕方の一言は、消えない。

消えなくていい。

あれは、この家でいちばん濃い色だ。

こちらは、台所の床に座った。

三十六年、薄めようとしていたものは、父の家でいちばん濃い色だった。

消してくれと、父は一度も言っていない。

こちらが、一人で消そうとしていた。

紙は、折り目が深かった。

何度も開かれた折り目だ。

父は、あれを、読み返していたのだと思う。

読み返して、また道具の下に戻していた。

こちらが手を出さない箱の中に、置いていた。

置いてあることを、こちらに言わなかった。

読ませれば、こちらが楽になる。

父は、こちらを楽にしなかった。

楽にするかわりに、置いたままにしておいた。

エピローグ

工具箱は、こちらの家の台所にある。

同じように、毎日見るところに置いた。

濃い赤は、まだ濃い。

鉄なので、ふちが硬い。

欠けたところも、そのままだ。

朝、そこを歩くときに、見る。

三十六年やったことは、無駄ではなかった。

薄めるためにやったことが、そのまま残っている。

薄まらないまま、周りが濃くなった。

父は、その濃さを、毎日見ていたのだと思う。

薄めるつもりでやったことを、父は、足し算として見ていた。

濡れているうちに置いた色は、乾いたあと、硬いふちを持つ。

ふちの内側は、動かない。

動かないので、周りを濃くするしかない。

周りを濃くしても、あの一言は、そのままの濃さでそこにある。

そのままでいい。

消したかった一言が、父の家でいちばん濃い色だった。

こちらは、それを、五十八で知った。

知るのに、三十六年かかった。

かかったぶんが、周りの濃さだ。

朝、工具箱のふちに、手を置く。

鉄は、冷たい。

ソウルミッション358

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