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台所のポット

一度置いた色は、薄められないこと

台所のポット

朗読で聴く

第一章 一度だけ頼まれた

五十五になった。

母は、三年前に死んだ。

八十七だった。

父は、もっと前に死んでいる。

母は、最後まで、自分の家にいた。

こちらの家から、車で一時間ちかい家だ。

母に、一度だけ、頼まれたことがある。

二十二年前だ。

こちらが三十三のときだった。

いっしょに住まないか、と言われた。

母の家に来ないか、という話だ。

母は、その話を、夕飯のあとにした。

茶碗を片づけながら、背中で言った。

あのね、と言って、少し黙った。

黙ったあとで、言った。

いっしょに住むのは、どうかしら。

こちらは、そのとき、台所に立っていた。

母の背中を見ていた。

その年、母の腰が悪くなった。

まだ歩けたが、階段がつらくなっていた。

こちらは、断った。

はっきり断った。

うちの子が小学校に入る年で、学校を変えたくなかった。

夫の仕事も、あちらだった。

理由は、いくつもあった。

理由はあったが、断ったのは、こちらだ。

理由を、三つ言った。

三つ言えば、断ってもいいことになる気がした。

母は、三つとも、うんうんと聞いた。

聞き終わってから、そう、と言った。

母は、そう、と言った。

それだけだった。

怒らなかった。

泣かなかった。

母は、そのあと二十二年、一度も、その話をしなかった。

第二章 言い出す場所がなかった

こちらは、あとで、何度も考えた。

あのとき、もう少し考えてから返事をすればよかった。

いっしょに住めたかもしれない。

住めなかったかもしれない。

どちらにしても、あの断り方はなかった。

あの日、こちらは、答えを持っていた。

夕飯の前から、持っていた。

母が何か言いたそうにしているのは、分かっていた。

分かっていて、断る用意をしてから、台所に立った。

用意していた言葉は、濡れていた。

濡れているものを、そのまま置いた。

その場で、はっきり断った。

考えますとも言わなかった。

次の週に、母の家へ行った。

あのことだけど、と言おうとした。

台所で、母がお茶を入れていた。

母は、こちらの顔を見て、笑った。

この前の話は、いいのよ。

そう言われた。

いいのよ。

その一言で、閉じた。

閉じられたので、こちらは、言い直せなかった。

言い直す場所を、母が作らなかった。

作らなかったのは、やさしさだと思った。

思っていたが、それでも、こちらの断りは、そのまま残った。

残ったまま、二十二年たった。

断りは、言葉のうちは短い。

短いのに、置かれると、大きさが変わらない。

第三章 土曜の午前

断った年から、こちらは、週に一度、母の家へ行った。

土曜の午前だ。

二十二年、ほとんど休まなかった。

行って、掃除をして、買い物をして、帰った。

病院にも、こちらが連れていった。

母の目の手術も、膝の注射も、全部だ。

家の修理も、こちらが手配した。

風呂の給湯器、雨どい、網戸。

庭の木も、切った。

母の家の鍵は、こちらが持っていた。

持っていたが、いつもチャイムを鳴らして入った。

鍵で勝手に入ると、住んでいる人のようになる。

住んでいない者が、住んでいるふりをするのは、いやだった。

二十二年、チャイムを鳴らして入った。

母は、毎回、はい、と言って出てきた。

母は、ありがとう、と言った。

毎回、言った。

こちらは、その言葉が、少し苦しかった。

ありがとうと言われるたびに、断ったことが戻ってきた。

かよえば、かようほど、断ったことが、そこにある。

薄めようとして、かよっていた。

自分でも、分かっていた。

同居はできない。

できないので、週に一度にした。

週に一度で、二十二年ぶんにした。

それで釣り合うと思っていた。

釣り合いというのは、こちらの言い方だ。

母は、釣り合いの話を、一度もしていない。

こちらだけが、帳面をつけていた。

帳面をつけていたのは、断ったほうだからだ。

断ったほうは、数える。

断られたほうは、数えない。

母は、数えるかわりに、書いていた。

第四章 母のポット

母の台所に、ポットがある。

黄色い、保温のポットだ。

古いもので、もう売っていない形だ。

母は、土曜の朝だけ、それにお湯を入れた。

こちらが来る日だけだ。

ふだんは、小さいやかんで足りる。

一人だから、足りる。

土曜だけ、ポットを出した。

二人で飲むから、ポットにした。

こちらは、そのことを、母が死ぬまで知らなかった。

母が死んだあと、近所の人から聞いた。

お母さん、金曜の夕方に、ポットを洗ってたよ。

明日、娘が来るからって。

毎週、洗ってた。

二十二年、そうしていたことになる。

金曜に洗って、土曜に出して、日曜にしまう。

こちらは、ポットがそこにあるものだと思っていた。

出してあるのは、ふつうだと思っていた。

ポットの取っ手のところに、小さな焦げがある。

いつついたのかは、知らない。

母に聞いたことも、ない。

お湯は、いつも少し多めに入っていた。

こちらが二杯飲むからだ。

二杯飲むことを、母は覚えていた。

こちらは、母が何杯飲むかを、覚えていない。

覚えようとしたことが、なかった。

世話をしているつもりの側は、相手の数を覚えない。

第五章 手帳に書いてあったこと

母の家を片づけたとき、手帳が出てきた。

薄い手帳が、十何冊もあった。

日付と、短い言葉だけの手帳だ。

二十二年前の分も、あった。

断った日のところに、書いてあった。

断られた。

その三文字だけだ。

ページをめくった。

その次の週のところに、また書いてあった。

来てくれた。

翌週も、来てくれた。

その次も、来てくれた。

二十二年、来てくれた、が並んでいた。

断られた、は、一度だけだ。

消されていなかった。

消されないまま、そのあとに、来てくれたが千回ならんでいた。

こちらは、断りを薄めるつもりで、かよっていた。

母は、薄めていなかった。

断られたも、来てくれたも、両方、そのまま置いていた。

薄めるのではなく、並べていた。

手帳のいちばん後ろに、走り書きがあった。

同じ言葉が、二度書いてある。

あの子の家を、こわさないでよかった。

二度めのほうは、字が大きかった。

こちらは、それを、母の許しだと思いたかった。

思いたかったが、ちがう。

許しは、断りを消さない。

母は、消せないことを知っていた人だ。

知っていたので、消そうとしなかった。

消そうとしないかわりに、隣に書き足した。

来てくれた、と書き足しつづけた。

二十二年、一度も薄めずに、足しただけだ。

エピローグ

黄色いポットは、こちらの家にある。

母の家を引きあげたとき、持ってきた。

うちの台所に置いてある。

土曜の朝に、お湯を入れる。

今は、うちの娘が来る日だ。

娘は、三十になった。

月に一度くらい、来る。

来ない週も、ポットは出しておく。

出しておくと、洗うことになる。

金曜に洗う。

母がやっていたことを、こちらがやっている。

二十二年前に断ったことは、消えない。

あれは、濡れているうちに置かれた色だ。

置いたときに、乾いた硬いふちができた。

薄めることは、できない。

できるのは、あとの色を、隣に置くことだけだ。

母の手帳のように、並べることだけだ。

断られた、が一度。

来てくれた、が千回。

どちらも、同じ濃さで残っている。

薄まったものは、一つもない。

増えたものだけが、ある。

こちらは、今、金曜にポットを洗っている。

ソウルミッション358

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