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土間のバケツ

一度置いた色は、薄められないこと

土間のバケツ

朗読で聴く

第一章 一度だけ

六十三になった。

弟がいる。

四つ違いで、五十九だ。

二十年前に、父が入院した。

肺だった。

三か月ほどで、死んだ。

そのあいだ、こちらは毎日、病院に行った。

家から自転車で行ける病院だ。

弟は、遠い町にいた。

仕事があって、月に一度しか来られなかった。

来ると、一泊して、帰っていった。

こちらは、それを、ずっと数えていた。

一度、二度、三度と、指で数えるようにではない。

弟が帰ったあと、次はいつ来るのかを、考えていた。

医者の説明を聞くのは、いつもこちらだった。

紙に書いて、弟に電話で伝えた。

洗濯物を持ち帰るのも、こちらだ。

替えの下着を買いに行くのも、こちらだ。

父の入れ歯を洗うのも、こちらだった。

やっていることが増えるたびに、何かが溜まった。

溜まっているものに、名前をつけないでいた。

数えていたことに、気づいていなかった。

二か月めの終わりごろだった。

夜の廊下で、弟と二人になった。

父が眠ったあとだ。

こちらは、一度だけ、言った。

お前は、父さんを、見捨てた。

言った。

声は、大きくなかった。

小さい声で、はっきり言った。

弟は、何も言わなかった。

下を向いて、しばらく立っていた。

それから、じゃあ、と言って、帰った。

第二章 取り消せなかった

次の日、こちらは、後悔した。

言いすぎたと思った。

弟は仕事を辞められない。

子どもが小さかった。

分かっていて、言った。

分かっていたから、言えたのだと思う。

知らない人には、あんなことは言わない。

弟の暮らしを、こちらは知っていた。

知っている者だけが、いちばん痛いところに置ける。

あの夜、こちらの手には、父の洗濯物の袋があった。

袋を持ったまま、言った。

弟が次に来たのは、その月の終わりだ。

こちらは、廊下で、待っていた。

あのことだけど、と言った。

弟は、こちらの言葉の途中で、もういい、と言った。

もういい。

その三文字で、終わった。

それ以上、言わせてくれなかった。

もう、いい、と、もう一度言った。

怒った声ではなかった。

疲れた声でもなかった。

ただ、ここは開けない、という声だった。

その晩、こちらは家で、手紙を書こうとした。

便箋を出して、机に置いた。

一枚も書けなかった。

書いたところで、弟はもういいと言うだろう。

便箋は、そのまま引き出しに入れた。

今も入っている。

弟は、そのあと、ふつうに父の部屋に入った。

ふつうに話し、ふつうに帰った。

こちらは、取り消せなかった。

取り消す場所を、弟が、閉じたのだ。

父は、その次の月に死んだ。

葬式のあいだ、弟はよく働いた。

あのことは、出てこなかった。

二十年、一度も出てこなかった。

第三章 土間のバケツ

家の土間に、バケツがある。

濃い青の、プラスチックのバケツだ。

父が死んだ年に買った。

墓に水を持っていくためのものだ。

二十年、同じものを使っている。

中に、ひしゃくと、たわしが入っている。

取っ手が、十年めに一度、割れた。

買い替えればよかった。

こちらは、針金で留めて、そのまま使った。

なぜ買い替えなかったのかは、うまく言えない。

同じものでないと、いけない気がした。

月に一度、墓へ行く。

夏は、二度行く。

草を取り、石を洗い、水をかける。

弟の分も、やっている。

弟は遠いので、盆と正月しか来られない。

来られないぶんを、こちらがやった。

それだけではない。

弟の子が学校に入るたびに、祝いを出した。

三人いる。

全部、出した。

弟の家の屋根を直すとき、金を半分出した。

弟の奥さんが手術した年は、二か月おきに見舞いに行った。

自分でも、多いと思っていた。

多くしていた理由は、分かっていた。

弟に会うたびに、こちらは何かを持っていった。

手ぶらで会うのが、こわかった。

手ぶらだと、あの夜のことだけが、二人のあいだに残る。

何かを持っていけば、そちらの話になる。

二十年、そうやって会っていた。

あの一言を、薄めたかった。

薄まると思っていた。

第四章 弟の入院

去年の秋に、弟が入院した。

胆石だった。

命の心配はない手術だ。

こちらは、遠い町まで行った。

病室に、二人になった。

二十年前と、逆の形だ。

こちらが立って、弟が寝ていた。

弟が、天井を見たまま、言った。

兄さん、あれは消えてないよ。

こちらは、何も言えなかった。

消えてないけど、と弟は続けた。

兄さんが二十年やったことも、消えてない。

二つ、あるんだ。

どっちも消えない。

こちらは、薄めたかった、と言った。

言ってしまった。

弟は、少し笑った。

薄まらないよ。

俺も、薄めたかった。

俺が月に一度しか来なかったことも、薄まらない。

それは初めて聞いた。

こちらは、椅子に座ったまま、返事ができなかった。

しばらくして、廊下に出た。

駐車場まで歩いて、車の横に座った。

弟も、二十年、数えていた。

数えていたのは、こちらだけだと思っていた。

思っていただけだった。

第五章 二人でやっていた

弟は、正月に必ず来ていた。

こちらの子にも、祝いを出していた。

うちの車を、弟が買い替えのときに探してきた。

母の三年の法事を、弟が全部組んだ。

こちらは、それを、弟のふつうだと思っていた。

ふつうではなかった。

弟も、周りを濃くしていた。

二十年、二人とも、同じことをしていた。

薄めるためにやって、薄まらないまま、まわりだけが濃くなった。

こちらは、償っているのは自分だけだと思っていた。

反対だった。

あの夜、廊下で言われた弟のほうが、長く数えていた。

月に一度しか来られなかった自分を、二十年数えていた。

こちらが数えていたのと、同じだ。

病室で、弟が言った。

あれを消してくれとは、俺は一度も言ってない。

言われたことがない、と気づいた。

消してくれと言われないまま、二十年、消そうとしていた。

弟の奥さんから、あとで聞いた話がある。

弟は毎年、盆の前に、墓の花の代金を送っていたという。

こちらの口座ではなく、花屋に直接だ。

こちらは、花屋がおまけをしてくれているのだと思っていた。

二十年、思っていた。

弟は、言わなかった。

言えば、薄める話になるからだ。

弟は、薄めようとしていたのではない。

ただ、置いた。

自分の分の色を、黙って置いていた。

エピローグ

土間のバケツは、まだ青い。

二十年たって、色は褪せていない。

プラスチックの、硬いふちのままだ。

朝、水を入れて、墓へ行く。

今年から、弟と二人で行く。

弟の手術のあと、そうなった。

石を洗うのは、弟がやる。

こちらは、草を取る。

どちらがどちらを手伝っているのかは、決めていない。

決めなくても、水は溜まる。

二十年前の一言は、消えない。

あれは、濡れているうちに置かれた。

濡れているうちに置いたものは、乾いたあと、硬いふちを持つ。

薄めることは、できない。

できるのは、周りを濃くすることだけだ。

周りを濃くしても、あの一言は、そのままの濃さでそこにある。

それでいい、と、今は思っている。

二十年ぶん、周りが濃くなった。

濃くなった中に、一言が入っている。

入っているが、それだけではなくなった。

弟が石を洗っている。

水の音がする。

こちらは、草を取っている。

ソウルミッション358

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