窓際の椅子
見下ろしていなかったこと

第一章 支えてきた
六十六になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
妻は、去年の春に死んだ。
六十四だった。
妻は、四十四のときから、体が悪かった。
関節の病気で、手と膝が痛む。
働けなくなった。
二十年、家にいた。
こちらは、仕事に出た。
配管の仕事だ。
朝七時に出て、夕方六時に帰った。
二十年、休まなかった。
薬の代金も、通院の費用も、こちらが出した。
支えてきた、と思っていた。
口に出したことは、無い。
出さないが、思っていた。
朝、出ていくとき、妻はベッドか、窓際の椅子にいた。
こちらは、立ったまま、言った。
行ってくる。
薬、飲んだか。
何か要るものは。
妻は、座ったまま、答えた。
二十年、その形だった。
子どもは、いない。
できなかった。
その話は、四十のころに、終わっている。
二人で、四十年、暮らした。
病気になる前の二十年と、なってからの二十年だ。
前の二十年のことは、よく覚えている。
妻は、よく歩く人だった。
休みには、二人で丘まで歩いた。
後の二十年は、歩いていない。
歩けなくなってからは、こちらだけが、外に出た。
第二章 窓際の椅子
寝室の窓際に、椅子がある。
木の椅子で、背が高い。
妻は、昼のあいだ、そこに座っていた。
窓からは、裏の庭が見える。
こちらは、休みの日に、庭で作業をした。
さくを直したり、木を切ったりした。
妻は、そこから見ていたはずだ。
はずだ、と書くのは、こちらが確かめなかったからだ。
庭から窓を見上げたことは、二十年で、数えるほどしかない。
見上げても、ガラスが光って、中は見えない。
見えないので、見なくなった。
窓は、こちらが直したものだ。
十五年前に、枠が傷んだので、入れ替えた。
そのとき、妻が言った。
少し、低くして。
こちらは、意味を聞かなかった。
言われたとおりに、低くした。
低くすると、座ったときに、外がよく見える。
妻は、そのために言った。
こちらは、そのことを、去年まで知らなかった。
直したのは、こちらの手だ。
なぜ低くするのかを、聞かないまま、直した。
第三章 座ってみた
妻が死んで、三か月、その部屋に入らなかった。
夏になって、片付けに入った。
椅子が、そのままあった。
座ってみた。
初めて、座った。
二十年で、初めてだ。
座ると、窓の外が、正面に見えた。
庭が、目の高さにあった。
さくの上のところが、ちょうど、目の前にある。
こちらが、いつも立っていた場所だ。
妻の目から見ると、こちらは、見上げる相手ではなかった。
同じ高さにいた。
椅子の背が高いのは、そのためだった。
妻は、この高さを、選んでいた。
部屋には、低い椅子もあった。
そちらのほうが、楽なはずだ。
妻は、低いほうを使わなかった。
低い椅子は、楽に座れる。
楽に座ると、窓の下の枠しか見えない。
見えるのは、空と、屋根だけになる。
妻は、空を見たかったのでは、ない。
庭を見たかった。
庭には、こちらがいる。
第四章 手帳
椅子のそばの棚に、手帳があった。
小さい手帳で、七年分あった。
開くと、日付の下に、短く書いてある。
妻の字だ。
痛みの度合いを、数字で書いてある。
三、五、七、と書いてある日がある。
その横に、別のことも書いてあった。
夫、今日は帰りが遅い。
夫、肩を回していた。
夫、階段で止まった。
夫、笑った。久しぶり。
こちらのことが、毎日、書いてあった。
自分の痛みと、同じ日のところに、書いてある。
階段で止まった日のことを、こちらは覚えていない。
肩を回したことも、覚えていない。
妻は、覚えていた。
妻は、窓から、こちらを見ていた。
見ていたのは、庭ではない。
庭で働いているこちらだ。
二十年、見ていた。
手帳には、季節のことも書いてあった。
さくの白いところが、剥げてきた。
木の葉が、去年より早い。
庭の草が、伸びている。
どれも、窓から見えるものだ。
妻は、外に出られない。
出られないので、窓の中のことが、全部だった。
その全部の真ん中に、こちらがいた。
こちらは、その真ん中にいることを、知らなかった。
知らないまま、毎朝、立って話していた。
第五章 友達の話
秋に、妻の友達が、うちに来た。
同じ町の人で、六十代だ。
週に一度、妻に会いに来ていた。
その人が、言った。
彼女は、あなたのことを、心配していました。
こちらは、聞き返した。
こちらを。
その人は、うなずいた。
その人は、言った。
あなたが、倒れないか、と。
彼女は、自分の痛みの話は、あまりしませんでした。
あなたの話を、していました。
こちらは、黙った。
その人は、もう一つ、言った。
一度、彼女が言いました。
あの人は、私を、かわいそうな人だと思っている。
それが、いちばんつらい、と。
こちらは、何も言えなかった。
そのとおりだったからだ。
二十年、妻を、かわいそうな人だと思っていた。
思っているあいだは、優しくできる。
優しくできるので、そのままにした。
かわいそうだと思うのは、上から見ることだ。
上から見ると、相手の顔が、よく見えない。
こちらは、二十年、立って話していた。
妻は、二十年、座ってこちらを見ていた。
見下ろしていたのは、こちらだった。
その晩、こちらは、長く考えた。
優しくしていたのは、本当だ。
薬を買い、病院に連れていき、家事をした。
やったことは、消えない。
消えないが、やり方に、形があった。
上から下へ、渡す形だ。
渡す形にすると、返ってこない。
返ってこないほうが、こちらは、楽だった。
返ってくると、こちらの疲れも、見られることになる。
見られたくなかった。
妻は、それも、見ていたのだと思う。
エピローグ
椅子は、動かしていない。
窓際に、そのまま置いてある。
朝、庭に出る前に、そこに座る。
座って、窓の外を見る。
さくが、目の高さにある。
妻が二十年見ていたものを、いま、同じ高さで見ている。
同じものを見ると、分かることがある。
庭で作業をしている人は、背中しか見えない。
顔は、めったに見えない。
それでも、肩の回し方で、疲れが分かる。
妻は、それで分かっていた。
こちらは、妻の顔を、毎日見ていた。
見ていたのに、分からなかった。
顔を見ていても、上から見ていると、分からない。
背中でも、同じ高さなら、分かる。
手帳は、棚に戻した。
読み返すのは、月に一度だけにしている。
毎日読むと、こちらが、また上に立つ気がする。
助けていた人、と思いたくなる。
助けていたのは、一方では、なかった。
二十年、二人で、同じ高さにいた。
こちらだけが、それを知らなかった。
知らないでいたほうが、楽だった。
楽だったことを、いま、書いている。
書くと、少し、戻せる気がする。
妻の椅子に座って書いている。
机は無いので、膝の上で書く。
膝の上で書くと、字が曲がる。
曲がった字のまま、置いておく。
直すと、上から見た字になる。
曲がっているほうが、いまのこちらに、近い。
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