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同じ台

見下ろしていなかったこと

同じ台

第一章 十五で入った

六十になった。

鉄工所で、四十五年、働いた。

去年、辞めた。

入ったのは、十五のときだ。

中学を出て、すぐに入った。

こちらは、字の読み書きが、苦手だった。

いまは、少し書ける。

当時は、ほとんど書けなかった。

教科書が読めなかった。

黒板も、途中から、写せなくなった。

学校では、後ろのほうに座っていた。

先生は、こちらの前に立って、上から話した。

分かったか、と聞かれた。

分かった、と答えた。

分かっていなかった。

分かっていないと言うと、話が長くなる。

長くなると、また上から話される。

それが、三年、続いた。

卒業して、工場に入った。

入った日、親方が、こちらを見た。

親方は、そのとき四十五だった。

親方は、書類を見なかった。

こちらの手を、見た。

工場は、大きくない。

いちばん多いときで、十二人いた。

作るのは、機械の部品だ。

同じ物を、たくさん作る仕事ではない。

一つずつ、寸法が違う。

図面が来て、それに合わせて、削る。

親方は、その図面を、こちらには渡さなかった。

渡さないことに、気づいたのは、ずっとあとだ。

そのときは、渡されないのが、当たり前だと思っていた。

第二章 こっちへ来い

親方は、教える人ではなかった。

説明を、しなかった。

こっちへ来い、と言った。

行くと、同じ台に、並んで立たされた。

親方が、やって見せた。

こちらは、横で見た。

横で見ると、手の動きが、同じ向きに見える。

向かいで見ると、左右が逆になる。

親方は、必ず、横に立たせた。

やってみろ、と言われた。

やった。

できなかった。

親方は、何も言わなかった。

もう一度、自分でやって見せた。

それを、四回、くり返した。

五回目に、少しできた。

親方は、うん、とだけ言った。

上手いとも、へたとも、言わなかった。

その日から、四十五年、そのやり方だった。

一度だけ、聞いたことがある。

どうして、説明しないのか。

親方は、手を止めて、言った。

説明は、聞いた人が分かったふりをする。

やって見せると、ふりができない。

こちらは、そのとおりだと思った。

学校の三年、こちらは、ふりをしていた。

ふりをしていると、誰も困らない。

困らないので、そのまま進む。

進んだ先で、困るのは、こちらだけだ。

第三章 伝票

工場には、伝票がある。

寸法と、数が書いてある。

こちらは、それが、すぐには読めない。

読めるが、時間がかかる。

時間がかかると、次の人が待つ。

入って半年で、親方が、こちらに言った。

お前は、寸法を、手で取れ。

こちらは、意味が、分からなかった。

親方は、鉄の板を出して、言った。

これの厚みを、当ててみろ。

こちらは、触った。

六ミリ、と言った。

合っていた。

親方は、もう一枚、出した。

四ミリ半、と言った。

合っていた。

親方は、言った。

伝票は、俺が読む。

お前は、手で取れ。

そのほうが、速い。

こちらは、うなずいた。

うなずいてから、下を向いた。

下を向いたのは、うれしかったからだ。

その日まで、こちらは、字が読めないことを、欠けていることだと思っていた。

親方は、そこを見ていなかった。

手を見ていた。

その年の冬、親方が、寸法の帳面を新しくした。

字が、大きくなっていた。

太い鉛筆で、はっきり書いてある。

こちらは、それが読みやすかった。

読みやすいとは、言わなかった。

言わなかったが、毎日、読んだ。

いま思えば、あれは、こちらのためだった。

親方は、そのことも、言わなかった。

言うと、こちらが、礼を言うことになる。

礼を言うと、上と下になる。

第四章 葬式

親方は、三年前に、死んだ。

八十七だった。

葬式に、昔の弟子が、七人来た。

こちらが、いちばん古い。

いちばん新しい人は、四十だ。

帰りに、七人で、飲んだ。

誰かが言った。

親方に、上から言われたこと、あるか。

七人とも、黙った。

それから、一人が言った。

無い。

もう一人が、言った。

俺も、無い。

七人とも、無かった。

四十の男が、言った。

俺、高校を中退してるんです。

入るとき、それを言いました。

親方は、そうか、とだけ言いました。

そのあと、何も聞かれませんでした。

こちらは、その話を聞いて、思った。

親方は、こちらの字のことも、四十五年、一度も言わなかった。

知っていたはずだ。

知っていて、言わなかった。

言わないというのは、黙っていることではない。

言わないために、別のやり方を作ることだ。

手で寸法を取るやり方は、そのために作られた。

第五章 教える側

いま、こちらが、教える側にいる。

辞める前の十年、若い者を見ていた。

三人、入って、二人辞めた。

残った一人は、いま二十八だ。

その一人に、ある日、言われた。

いつも、横に来てくれますね。

こちらは、そのとき、初めて気づいた。

こちらは、立って説明していない。

同じ台に、並んで立っている。

親方と、同じやり方をしていた。

教わっていないのに、同じことをしている。

その若い者に、聞いた。

前の会社では、どうだった。

その人は、言った。

向かいに立って、指さされました。

こちらは、聞いた。

どうだった。

その人は、言った。

手が、止まりました。

こちらは、うなずいた。

上から言われると、手が止まる。

手が止まると、覚えない。

覚えないと、また上から言われる。

学校の三年が、それだった。

若い者に、一度だけ、字の話をした。

こちらは、読むのが遅い、と言った。

その人は、そうなんですか、とだけ言った。

それから、何も聞かなかった。

次の日から、その人は、伝票を先に読むようになった。

読んで、寸法を口で言う。

こちらは、手で取る。

誰にも、言っていない。

その人も、言わない。

親方と同じことを、若い者が、自分で始めた。

エピローグ

辞めてから、月に一度、工場に行く。

顔を出すだけだ。

行くと、あの若い者が、同じ台の前にいる。

こちらは、横に立つ。

並んで立つと、目の高さが、だいたい同じになる。

鉄の板を、二人で見る。

同じものが、同じ向きに見える。

向かいに立つと、左右が逆に見える。

逆に見えているものを、直せ、と言われても、直せない。

親方は、それを知っていた。

知っていたので、横に立った。

四十五年、一度も、上からは言われなかった。

一度も、というのは、大きい。

一度あると、次から、身構えるからだ。

身構えないで四十五年いられた場所は、こちらには、そこだけだった。

字は、いまも、遅い。

遅いままで、四十五年、働いた。

遅いことを、直そうとしてくれた人もいた。

親方は、直さなかった。

直さずに、横に立った。

こちらは、そちらのほうが、ありがたかった。

親方の背は、こちらより低かった。

並ぶと、こちらが少し見下ろす形になる。

それでも、上から言われたと思ったことは、一度も無い。

目の高さは、体の高さでは、なかった。

どちらが決めるかの話だった。

親方は、決めさせてくれた。

横に立つのは、こちらにも、できる。

背の高さは、変えられない。

立つ場所は、変えられる。

ソウルミッション358

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