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座ってくれ

見下ろしていなかったこと

座ってくれ

朗読で聴く

第一章 十年

六十四になった。

隣の家に、男の人が、一人で住んでいた。

八十八だった。

去年の冬に、死んだ。

十年、夕飯を届けていた。

うちで作ったものを、いつもより多く作って、持っていった。

毎日ではない。

週に、四日ほどだ。

始めたのは、その人の奥さんが死んだ年からだ。

こちらは、世話をしていると、思っていた。

言葉にはしない。

言葉にしないが、そう思っていた。

届ける人と、届けられる人がいる。

こちらは、届ける人だった。

十年、そのつもりだった。

届けると、少し、いい気持ちになった。

その気持ちのことは、誰にも言わなかった。

言わなかったが、あった。

夫は、何も言わなかった。

多く作るのも、持っていくのも、止めなかった。

一度だけ、聞かれた。

毎日で、疲れないか。

こちらは、疲れない、と答えた。

答えてから、少し考えた。

疲れないのは、なぜだろう。

あの家に行くと、こちらは、役に立っている。

役に立っているあいだは、疲れない。

そういうものだと、そのときは思った。

第二章 低い椅子

その人の家の台所には、低い椅子があった。

足が短い、古い椅子だ。

その人は、いつもそこに座っていた。

こちらは、立ったまま、器を置いた。

置いて、二こと三こと話して、帰った。

始めて半年ほどのころ、その人が言った。

座ってくれ。

こちらは、すぐ帰りますから、と言った。

その人は、もう一度、言った。

座ってくれ。

こちらは、座った。

向かいに、同じ低さの椅子があった。

座ると、目の高さが、同じになった。

その人の顔が、正面から、見えた。

それまでは、上から見ていた。

上から見ると、頭のてっぺんと、手が見える。

顔は、あまり見えない。

座ってからは、顔が見えた。

しわの深さも、目の色も、その日から知った。

それから十年、行くたびに、座った。

座ってくれ、と言われたのは、一度だけだ。

一度で、足りた。

第三章 ノート

その人が死んで、ひと月して、息子が来た。

息子は、六十だ。

遠くに住んでいて、年に二度、来ていた。

家を片付けていると言って、こちらを呼んだ。

見てほしいものがある、と言った。

台所の引き出しに、ノートが何冊かあった。

日々のことが、少しずつ書いてある。

天気。

血圧。

何を食べたか。

その中に、こちらのことが、書いてあった。

隣の人、来る。

それだけの日もある。

書いてある日には、こんなことも書いてあった。

隣の人、今日は、顔色が悪い。

隣の人、今日は、早く帰った。何かあったか。

隣の人、笑っていた。よかった。

日にちを、たどった。

顔色が悪いと書いてある日は、こちらが、母の具合で悩んでいた週だった。

早く帰ったと書いてある日は、夫と言い合いをした日だった。

こちらは、何も言っていない。

言っていないのに、書いてある。

もっと前のページにも、あった。

隣の人、今日は来ない。日曜だから。

隣の人、器を二つ持ってきた。多い日だ。

隣の人、雨なのに来た。

こちらは、雨の日のことを、覚えていない。

覚えていないことが、書いてある。

書いてあるほうが、たくさんあった。

ノートは、七冊あった。

七冊とも、同じ書き方だった。

天気と、血圧と、こちらのことだ。

十年、見られていた。

こちらが見ているつもりの十年、向こうも、こちらを見ていた。

第四章 息子の話

息子は、茶を入れてくれた。

息子は、言った。

父は、あなたのことを、友達だと言っていました。

こちらは、聞き返した。

友達。

息子は、うなずいた。

息子は、言った。

世話になっている、とは、言いませんでした。

一度も、言いませんでした。

こちらは、黙った。

息子は、言った。

そう言うと、上と下になるから、だと思います。

父は、それを、いやがる人でした。

こちらは、低い椅子のことを、話した。

座ってくれ、と言われた話だ。

息子は、笑って、言った。

それです。

息子は、言った。

父は、立っている人と話すのが、苦手でした。

見上げるのが、いやなんです。

こちらは、そのとき初めて、分かった。

あの人は、こちらに座ってほしかったのではない。

自分が、見上げたくなかったのでもない。

同じ高さで、話したかった。

どちらが上でも下でもない高さに、十年、いた。

息子は、もう一つ、言った。

父は、最後の一年、足が悪くなりました。

それでも、椅子を高くしませんでした。

こちらは、聞いた。

高いほうが、立ち上がりやすいのでは。

息子は、言った。

言いました。

父は、いらない、と言いました。

こちらは、その低さの意味を、そのとき知った。

あの低さは、立ち上がるためではなく、座るためのものだった。

向かいに座る人の顔が、正面に来る高さだ。

十年、その高さに合わせてもらっていた。

第五章 母のこと

家に帰って、母のことを、思い出した。

母は、七年前に、九十で死んだ。

最後の四年、寝たきりだった。

こちらは、毎日、かよった。

行くと、こう言っていた。

お母さん、ごはん食べた。

薬は飲んだ。

寒くない。

そのとき、こちらは、立っていた。

ベッドの横に立って、上から話していた。

母は、こちらを見上げていた。

四年、ずっとだ。

一度も、座らなかった。

椅子は、部屋にあった。

座ればよかった。

座らなかったのは、急いでいたからだ。

急いでいたのは、本当だ。

本当だが、それだけではない。

座ると、話が長くなる。

長くなると、母の言いたいことが、出てくる。

出てくると、こちらが、引き受けることになる。

立っていれば、三分で帰れた。

立っていたのは、世話をするためではない。

こちらを守るためだった。

隣の人は、それを、半年で見抜いていたのだと思う。

だから、座ってくれ、と言った。

エピローグ

隣の家は、空いている。

低い椅子は、息子がくれた。

うちの台所に、置いてある。

同じ低さの椅子を、もう一つ、買った。

向かい合わせに、置いてある。

誰かが来たら、そこに座ってもらう。

こちらも、座る。

座ると、顔が、正面から見える。

立ったままだと、顔が見えない。

見えないまま、十年でも、二十年でも、過ぎる。

孫が来たときは、床に座る。

孫は、五つだ。

床に座ると、孫のほうが、少し高い。

それでいい。

高さを合わせるというのは、こちらが下がることでもある。

上から見ないというのは、気持ちの話では、なかった。

膝を曲げるかどうかの話だった。

膝は、意志より、正直だ。

母には、間に合わなかった。

間に合わなかったことは、消えない。

消えないので、いま、曲げている。

もう一つ、分かったことがある。

こちらは十年、あの人を、助けていたのではない。

二人で、毎週四日、向かい合って座っていた。

器を持っていったのは、座るための用事だ。

用事が無いと、座れない。

用事を作っていたのは、こちらのほうだった。

座るための用事なら、作ってよかったのだ。

作らないで座れる相手は、そんなにいない。

十年、四日ずつ、座った。

数えると、二千回に近い。

二千回、同じ高さにいた人は、母のほかには、あの人だけだ。

ソウルミッション358

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