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屋根

離れて浮いているものは、一つも無かったこと

屋根

朗読で聴く

第一章 外にいた

六十三になった。

三人兄弟の、真ん中だ。

兄は、六十六。

弟は、五十九。

実家は、北のほうの、小さな町にある。

兄が、家と畑を継いだ。

弟は、同じ町で、役場に勤めている。

こちらは、十八で出て、四十五年、東京にいる。

仕事は、機械の部品を売る会社だった。

去年、辞めた。

盆と正月に、実家へ帰る。

二泊して、帰る。

帰ると、話が、分からない。

誰それの田んぼの話。

寄り合いの話。

道の工事の話。

兄と弟は、名前だけで通じる。

こちらは、その名前を、知らない。

知らないので、黙って、茶を飲む。

黙っていると、話が、こちらの頭の上で、続いていく。

四十五年、そうだった。

こちらは、この家の外にいる。

そう思っていた。

三人のうち、一人だけ、浮いている。

紙の上に、点が一つ、離れて置いてある。

点は、線ともつながっていない。

線は、兄と弟のあいだにある。

母とも、そうだった。

電話は、月に一度した。

話すことは、決まっていた。

体はどうか、寒くないか、それだけだ。

母は、長く話す人では、なかった。

五分で、じゃあね、になる。

五分でも、毎月かけた。

かけていたが、それも、外からかけている気がしていた。

第二章 母の葬式

母は、去年の秋に、九十二で死んだ。

父は、十五年前に死んでいる。

葬式は、実家でやった。

こちらは、前の晩に着いた。

着いたときには、もう、だいたい決まっていた。

誰に連絡するか。

誰が受付に立つか。

寺への包みをいくら包むか。

兄が決めて、弟が動いていた。

こちらは、椅子に、座っていた。

座っていて、思った。

やっぱり、外だ。

手伝いますと言うと、兄は、いいから、と言った。

いいから、は、悪い意味ではない。

分かっている。

それでも、いいから、と言われると、外になる。

焼香のとき、親戚が、こちらを見て言った。

東京の人ね。

そのとおりなので、はい、と答えた。

答えてから、はい、でよかったのかを、考えた。

通夜の晩、兄が、こちらの布団を、出した。

いつもの部屋だった。

子どものころに寝ていた部屋だ。

四十五年、同じ部屋に、寝かされている。

そのことを、その晩、初めて思った。

兄は、何も言わずに、毎回、そこを空けていた。

空けてあるところは、外では、ない。

第三章 家計簿

四十九日のあと、家の片付けに行った。

兄と、二人でやった。

母の部屋の引き出しから、家計簿が出てきた。

三十冊ほどあった。

古いのは、四十年前のものだ。

兄が、めくった。

一日いくら使ったかが、細かく書いてある。

こめ、味噌、電気、薬。

最後のほうのページに、別の欄があった。

毎月、同じ日に、同じ金額が、書いてある。

兄が、言った。

これ、お前のだな。

こちらは、覗きこんだ。

三十年前から、毎月、こちらが母に送っていた額だった。

多い額では、ない。

自動で送る手続きにして、そのまま、三十年にした。

送っていることを、忘れていた月も、ある。

母から、礼を言われたことは、一度も無い。

言われないので、届いているのかも、確かめなかった。

家計簿には、全部、書いてあった。

一度も、抜けていなかった。

兄が、言った。

母さん、これを、別にしてた。

こちらは、聞いた。

別に。

兄は、言った。

使わないで、貯めてた。

最後の三年だけ、使ってる。

第四章 屋根

兄は、家計簿を持って、外に出た。

庭から、家を、見上げた。

夕方だった。

西の日が、低いところから、家に当たっていた。

家は、黒い塊に見えた。

屋根の形だけが、空に出ている。

兄が、屋根を、指した。

兄は、言った。

あれ、四年前に、直した。

こちらは、知らなかった。

兄は、言った。

台風で、めくれた。

業者を呼んだら、思ったより、かかった。

母さんが、自分で出すと言った。

こちらは、聞いた。

どこから、出したんだ。

兄は、家計簿の、最後のほうを、見せた。

こちらの送った額が、そこで、出ていっていた。

三十年のあいだに貯めたものが、ほとんど、そこに使われていた。

兄は、言った。

だから、あの屋根は、お前のだ。

こちらは、何も、言えなかった。

屋根を、見た。

逆光で、真っ黒だった。

中に何があるかは、見えない。

形だけが、はっきりしている。

あの屋根の下で、兄が寝て、弟が来て、母が死んだ。

こちらは、東京にいた。

いなかったが、屋根は、こちらの出した額でできていた。

見えていなかっただけだ。

浮いていたのでは、なかった。

触れていた。

いちばん高いところで、四年、触れていた。

兄は、家計簿を、閉じた。

兄は、言った。

言おうと思ってたんだ。

こちらは、聞いた。

なぜ、言わなかった。

兄は、言った。

言うと、お前が、もっと送る。

こちらは、黙った。

たぶん、そうした。

兄は、それを、知っていた。

知っているというのは、そういうことだ。

第五章 見えるもの

その晩、弟が来た。

三人で、飲んだ。

弟が、言った。

兄貴から聞いたか。

屋根。

こちらは、うなずいた。

弟は、言った。

俺も、知らなかった。

去年、聞いた。

兄は、言った。

母さんが、言うなと言ってた。

こちらは、聞いた。

なぜ。

兄は、少し、考えた。

兄は、言った。

たぶん、お前に、気を使わせたくなかった。

弟が、笑って、言った。

兄さんは、毎週、母さんの飯を作ってた。

俺は、車を出してた。

兄貴の飯も、俺の車も、見えるところにある。

見えるから、当たり前になってる。

兄貴のも、俺のも、誰も礼を言わない。

こちらは、その話を、初めて聞いた。

毎週、飯。

毎週、車。

四十五年、こちらは、それも、知らなかった。

こちらが外だったのでは、ない。

三人とも、見えていないものを、持っていた。

弟が、言った。

兄さんとこのこめ、毎年、届いてるだろ。

こちらは、うなずいた。

毎年、秋に、こめが届く。

礼の電話を、したことが無い。

届くのが、当たり前になっていた。

エピローグ

東京に帰って、こめの袋を、見た。

台所の床に、置いてある。

袋の中は、見えない。

袋の形だけが、ある。

この米は、兄の田んぼでできて、弟が車で運んで、送られてくる。

こちらの屋根は、あの家の屋根になっている。

どちらも、見えないところで、触れていた。

四十五年、こちらは、自分を、点だと思っていた。

離れて、浮いている点だ。

浮いた点は、絵の中では、不良になる。

どこから来たのかが、分からないからだ。

こちらは、どこから来たのかが、分かっている。

あの屋根の下から、来た。

毎月の送金は、こちらの手から出て、母の欄に入って、屋根になった。

線は、あった。

細くて、見えなかっただけだ。

兄に、電話をした。

こめの礼を、言った。

今年のことだけ、言った。

四十五年をまとめては、言えない。

兄は、そうか、とだけ言った。

そうか、で、足りる。

来月、また帰る。

盆でも正月でもない月に、帰る。

話は、たぶん、分からない。

分からないまま、座っている。

座っているところの上に、あの屋根がある。

四十五年、そこに座っていた。

座っていたことも、あの屋根に、触れていた。

ソウルミッション358

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