五つの点
離れて浮いているものは、一つも無かったこと

朗読で聴く
第一章 五つ
六十六になった。
娘は、四十だ。
娘と、大きな喧嘩を、五つ、している。
数えられるので、五つだ。
一つめは、娘が十七のとき。
美術の学校に行きたいと言った。
こちらは、行かせなかった。
二つめは、二十四の結婚のとき。
相手に、反対した。
三つめは、二十八で子どもが生まれるとき。
里帰りを、断った。
うちは狭いから、と言った。
四つめは、三十三の引っ越しのとき。
近くに来なさい、と言った。
娘は、来なかった。
五つめは、去年。
孫の学校のことで、言い合った。
五つとも、はっきり覚えている。
日にちも、場所も、言った言葉も、覚えている。
覚えているのに、つながっていない。
思い出すと、五つが、別々に浮かぶ。
白い紙の上に、点が五つあるような感じだ。
点と点のあいだには、何も無い。
だから、こう思っていた。
運が悪い親子だ。
たまたま、五回、ぶつかった。
あいだの三十年は、うまくいっていた。
うまくいっていた三十年に、五つだけ、黒い点がある。
夫は、八年前に死んだ。
夫は、五つのうち、三つを、見ている。
見ていて、何も言わなかった。
あとで一度だけ、言った。
お前は、先に決める人だな。
こちらは、聞き流した。
決めなければ、誰も決めない、と思っていた。
夫が死んでから、その言葉を、何度か思い出した。
思い出すたび、これも別の点として、浮かべていた。
第二章 娘の一言
去年の暮れ、娘が来た。
孫は、部屋で寝ていた。
台所で、二人になった。
こちらは、五つの話を、した。
こちらは、言った。
私たち、五回、ぶつかったね。
娘は、湯のみを、置いた。
娘は、言った。
五回じゃない。
こちらは、聞き返した。
もっとあるの。
娘は、言った。
一回だよ。
こちらは、意味が、分からなかった。
娘は、言った。
全部、同じこと。
こちらは、言った。
事情が、違うでしょう。
学校の話と、結婚の話と、引っ越しの話。
娘は、言った。
事情は、違う。
でも、私が言う前に、もう決まってた。
それは、五回とも、同じ。
こちらは、何も、言えなかった。
娘は、怒っていなかった。
怒っていたら、言い返せた。
娘は、湯のみを持って、静かに言った。
私、五回とも、同じことを、言おうとしてたよ。
先に、聞いてほしかった。
第三章 刷る人
娘の夫は、刷りの仕事をしている。
シルクスクリーンだ。
正月に、仕事場を、見せてもらった。
一色だけで刷る。
黒い一色だ。
紙の白いところは、刷っていないところだ。
刷り上がった一枚を、見せてもらった。
黒い塊が、一つ、真ん中にある。
こちらは、聞いた。
ここの、小さい点は。
紙の右下に、小さい黒い点が、一つ、あった。
娘の夫は、その一枚を、横に、よけた。
これは、不良です。
こちらは、聞いた。
点が一つ、あるだけで。
娘の夫は、言った。
白いところに、離れて浮いている点は、作りません。
刷ったものは、全部、一つの塊につながっているか、触れています。
離れた点は、どこから来たのかが、分からない。
分からないものが、絵の中にあると、絵が止まります。
こちらは、聞いた。
つながっていれば、いいんですか。
娘の夫は、言った。
触れていれば、いいんです。
端が、少しでも、当たっていれば、それは塊の一部です。
離れて見えるだけで、離れてはいない。
こちらは、その一枚を、長く、見た。
娘の夫は、刷り上がった別の一枚を、出した。
黒い塊が、上のふちから、下のふちまで、走っている。
こちらは、聞いた。
これは、はみ出していますね。
娘の夫は、言った。
はみ出していいんです。
紙の外に続いていることになるので。
いけないのは、浮くことだけです。
こちらは、聞いた。
浮いたのは、直せますか。
娘の夫は、言った。
直せません。
その一枚は、もう、そうなっている。
次の一枚から、変えます。
仕事場の壁に、刷り上がりが、何枚も貼ってあった。
どの一枚にも、浮いた点は、無かった。
第四章 ふち
家に帰って、五つを、紙に書いた。
順番に、書いた。
十七、二十四、二十八、三十三、去年。
点が、五つ、並んだ。
あいだに、線を引いてみた。
線は、引けなかった。
引けないので、そのまま、置いた。
次の日、もう一度、見た。
五つの言葉が、同じだった。
学校のとき、こちらは言った。
あなたのためだから。
結婚のとき、こちらは言った。
あなたのためだから。
里帰りのときも、引っ越しのときも、去年も。
五回とも、同じことを、言っている。
言う前に、決まっている。
決まっているので、話は、報告だった。
五つは、点では、なかった。
一つの塊の、ふちだ。
塊は、こちらの中にある。
紙の白いところに、ずっと、あった。
あったのに、見えていなかった。
黒いところしか、見ていなかったからだ。
塊の名前を、考えた。
しつけ、ではない。
心配、でもない。
こわい、だった。
娘が、こちらの知らないところへ行くのが、こわかった。
こわいので、先に決めた。
決めると、こわくなくなる。
三十年、それをしていた。
五回だけ、おもてに出た。
娘が家にいた十八年のことも、思い出した。
毎朝、弁当を作った。
毎晩、話を聞いた。
行事には、全部、行った。
それも、同じ塊の中にある。
こわいので、近くにいた。
近くにいたことは、娘に、届いている。
届いているのに、同じ塊から出ている。
良いほうも、悪いほうも、一つの塊だった。
悪いところだけを、切り離して直すことは、できない。
切り離すと、良いほうも、無くなる。
第五章 言う
春に、娘に、電話をした。
こちらは、言った。
五つ、別々だと思ってた。
娘は、黙って、聞いていた。
こちらは、言った。
一つだった。
あなたが、言ったとおりだった。
娘は、聞いた。
何の一つ。
こちらは、少し、迷った。
迷ってから、言った。
こわかった。
あなたが、私の知らないほうに行くのが。
電話の向こうが、静かになった。
娘は、言った。
言ってくれたら、よかったのに。
こちらは、言った。
言えなかった。
言うと、こわいのが、本当になるから。
娘は、言った。
私も、こわかったよ。
お母さんに、だめって言われるのが。
こちらは、聞いた。
それも、五回とも。
娘は、言った。
五回とも。
二人で、同じ形のものを、別々に持っていた。
持っているあいだ、どちらも、それを言わなかった。
エピローグ
紙に書いた五つは、そのまま、置いてある。
消さない。
点は、消えない。
点は、本当にあったことだ。
消すと、無かったことになる。
無かったことには、しない。
変わったのは、あいだだ。
あいだが、白ではなかった。
白に見えていたのは、こちらが黒いところしか見ていなかったからだ。
三十年、塊は、ずっとそこにあった。
五つは、その、ふちに触れていた。
触れているものは、離れていない。
離れて見えるだけだ。
娘とは、月に二度、電話をする。
用が無くても、かける。
先に決めないで、聞く。
聞いてから、言う。
言えないときもある。
言えないときは、言えない、と言う。
孫が、この春、中学に入った。
何になりたいのかを、まだ聞いていない。
聞くのは、娘の役だ。
こちらは、そのあとで、聞く。
順番を、変えた。
変えたのは、一つだけだ。
一つ変えると、五つとも、形が変わった。
塊が一つなら、直すところも、一つでいい。
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