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二本の指

跡は、穴ではなかったこと

二本の指

朗読で聴く

第一章 欠けた手

六十八になった。

アメリカの、小さな町に、住んでいる。

二十八のとき、工場で、右手の指を、二本、失った。

人差し指と、中指だ。

機械に、入った。

一瞬だった。

それから、四十年。

こちらは、自分の右手を、欠けた手だと、呼んでいた。

口に出しては、言わない。

頭の中で、そう呼んでいた。

人と話すとき、右手は、ポケットに入れた。

握手は、左手を、出した。

左手を出すと、相手が、一瞬、止まる。

その一瞬が、嫌だった。

妻は、気にするなと、言った。

こちらは、うなずいた。

うなずいて、次の日も、ポケットに入れた。

四十年、そうした。

欠けたところは、穴だと、思っていた。

二本ぶん、無い。

無いので、その手は、二本ぶん、足りない手だ。

足りない手で、四十年、暮らしてきた。

仕事は、変えなかった。

同じ工場で、三十五年、働いた。

手は、使えた。

使えたが、足りないと、思っていた。

第二章 孫

孫が、生まれた。

息子の子だ。

いま、五つになる。

去年の夏、孫が、こちらの右手を、見た。

じっと、見た。

こちらは、手を、引っ込めようとした。

孫は、その手を、つかんだ。

小さい手で、こちらの親指と、薬指を、握った。

孫は、言った。

じいじの手、持ちやすい。

こちらは、聞き返した。

持ちやすい。

孫は、うなずいた。

こちらは、動けなかった。

孫は、言った。

指が、じゃまじゃないから。

ちょうどの、すきまが、ある。

こちらは、何も、言えなかった。

孫は、その手を、引っぱって、庭に、出た。

こちらは、ついていった。

庭で、孫は、その手を、離さなかった。

こちらは、その日、右手を、ポケットに入れなかった。

四十年で、初めてだった。

入れるのを、忘れていた。

忘れていられた。

第三章 妻の話

その晩、妻に、言った。

孫が、右手を、持った。

妻は、言った。

知ってる。

見てた。

こちらは、言った。

持ちやすい、って言った。

妻は、言った。

そうね。

こちらは、聞いた。

お前、どう思ってた。

この手を。

妻は、しばらく、黙った。

妻は、言った。

四十年、一度も、足りないと思ったこと、ない。

こちらは、言った。

噓だろう。

妻は、言った。

噓じゃない。

あなたの手は、そういう手だから。

こちらは、言った。

二本、無いんだ。

妻は、言った。

無いけど、へこんでない。

こちらは、聞き返した。

へこんでない。

妻は、言った。

あなた、その手で、缶を開けるでしょう。

親指と薬指で、はさんで、手首を回す。

三十年、そうしてる。

私、あれ、できない。

あなたの手にしか、できない。

あれ、へこんだ手が、することじゃない。

こちらは、言った。

できることだけ、数えてるんだろう。

妻は、言った。

あなたは、できないことだけ、数えてる。

こちらは、自分の右手を、見た。

親指と、薬指と、小指。

三本。

どれも、左手の同じ指より、太かった。

四十年、この三本で、やってきた。

第四章 版画

こちらの兄は、版画を、やっている。

七十二だ。

その週末、兄の家に、行った。

兄は、刷ったばかりの紙を、見せた。

茶色い、部屋の絵だ。

床に、四角い跡が、あった。

こちらは、言った。

ここ、穴か。

兄は、言った。

違う。

この技法は、柔らかい地に、物を押し当てて、剥がす。

剥がしたところが、跡になる。

彫ってはいない。

地の高さは、跡の中も、外も、同じだ。

兄は、紙を、横から、見せた。

平らだった。

兄は、言った。

跡は、穴じゃない。

同じ面の上で、両側の育ち方が、違うだけだ。

中は押されて、目が詰まる。

外は、そのままだ。

減ってはいない。

こちらは、聞いた。

埋めるのか、そこは。

兄は、言った。

埋めない。

埋めるところが、無いからな。

こちらは、その紙を、長く、見た。

それから、自分の右手を、出した。

兄の前では、出せる。

子どものころから、見られている手だ。

こちらは、言った。

これも、そうか。

兄は、こちらの手を、見た。

兄は、言った。

そうだろうな。

お前の手、四十年で、形が、変わった。

親指が、太い。

薬指が、曲がる角度が、違う。

こちらは、自分の指を、見た。

本当だった。

親指が、左手より、ずっと太い。

薬指の付け根が、盛り上がっている。

四十年、その二本で、はさんできた。

兄は、言った。

使ったほうが、育つ。

使わなければ、育たない。

左手は、四十年、五本のままだ。

兄は、言った。

欠けた手だと、言ってきただろう。

こちらは、言った。

言ってきた。

兄は、言った。

欠けてない。

育った。

育ち方が、左手と、違うだけだ。

第五章 反転

家に帰って、こちらは、座った。

右手を、机に、置いた。

四十年、この手を、穴だと、思ってきた。

二本ぶん、へこんでいると。

へこんでいたのは、手では、なかった。

手は、とっくに、別の形に、育っていた。

親指が太くなり、薬指が動くようになり、手首が回るようになった。

缶を開ける動きも、四十年で、作った。

その動きは、左手には、できない。

作ったのは、この手だ。

へこんでいたのは、こちらの見方だ。

二本を、探し続けていた。

探し続けると、探しているものしか、見えない。

あるほうが、見えない。

妻は、四十年、そちらを、見ていた。

孫も、見た。

こちらだけが、無いほうを、見ていた。

四十年、同じ手を、二人が別の見方で、見ていた。

妻の見方のほうが、正しかった。

四十年、そう言われていたのに、聞かなかった。

孫の手が、先に、届いた。

次の日、孫が、来た。

こちらは、右手を、先に、出した。

孫が、握った。

こちらは、言った。

持ちやすいか。

孫は、言った。

持ちやすい。

息子が、横で、見ていた。

息子は、何も、言わなかった。

言わずに、こちらの右手を、見ていた。

夜、息子が、言った。

父さん、その手、今日、ずっと出てたね。

こちらは、言った。

出てた。

息子は、言った。

俺、その手、見慣れてるよ。

小さいころから。

エピローグ

朝、コーヒーの缶を、開ける。

右手で、はさんで、手首を、回す。

四十年、この開け方だ。

この手にしか、できない。

二本は、無い。

それは、本当だ。

でも、穴では、なかった。

穴なら、埋めるものが、要る。

四十年、埋めるものを、探していた。

義指のことも、考えた。

手袋も、買った。

どれも、埋めるためだった。

埋めるところが、無かった。

義指も、手袋も、しまってある。

捨ててはいない。

いらないだけだ。

この手は、同じ高さの面の上で、左手と違う育ち方を、しただけだ。

親指は太く、薬指は曲がり、手首は回る。

減ったのでは、ない。

変わったのだ。

握手は、右手を、出す。

相手が、一瞬、止まることも、ある。

止まっても、いい。

止まるのは、相手の一瞬だ。

こちらの四十年では、ない。

この手を、出す。

先に、出す。

孫が、持ちやすいと言った手だ。

妻が、四十年、足りないと思わなかった手だ。

兄が、育ったと言った手だ。

こちらだけが、遅れて、そう思った。

遅れても、思えた。

跡は、逃げない。

四十年、そこに、あった。

同じ高さで、そこに、ある。

ソウルミッション358

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