持たなかった側
跡は、穴ではなかったこと

朗読で聴く
第一章 無い人生
六十六になった。
結婚は、しなかった。
子どもも、いない。
三十八年、同じ小学校で、事務の仕事を、した。
去年、辞めた。
同級生に会うと、言われる。
子どもがいないと、楽でいいね。
悪気は、無い。
こちらも、笑って、うなずく。
うなずいて、家に帰ってから、思う。
こちらの人生には、無いものが、多い。
夫が、無い。
子どもが、無い。
孫が、無い。
嫁いだ先が、無い。
名字が、変わったことも、無い。
同級生の話す、孫の運動会も、嫁との気づまりも、こちらには、無い。
そういう話のときは、黙っている。
黙って、聞いている。
話が終わると、誰かが、こちらに、話を振る。
あなたは、どうなの。
こちらは、言うことが、無い。
こちらは、自分の六十六年を、穴のある人生だと、思っていた。
まん中が、抜けている。
抜けているので、ほかのところで、埋めなければならない。
そう、思っていた。
母は、生きているとき、言った。
あんたは、一人で気楽でいい。
言ったあとに、少し、黙った。
その黙るのが、いちばん、こたえた。
第二章 埋めようとした
埋めるために、いろいろ、した。
三十代で、着付けを、習った。
四十代で、俳句を、始めた。
五十で、ボランティアに、入った。
六十で、山に、登り始めた。
着物は、着る相手が、いない。
俳句は、誰にも、見せない。
山は、一人で、登る。
どれも、一人でできるものを、選んでいた。
どれも、続いた。
続いたが、埋まらなかった。
埋まらないのは、穴が深いからだと、思った。
人に、言われることもあった。
趣味がいっぱいあって、うらやましい。
こちらは、うなずいた。
うなずきながら、思った。
この人は、埋めるためにやっていない。
こちらは、埋めるためだ。
同じことをしていても、中身が、違う。
埋めるためにやると、終わったあとに、また、空く。
空くので、次を、探す。
三十年、そうしていた。
第三章 版画の話
俳句の会に、版画をやる人が、いた。
七十くらいの、男の人だ。
あるとき、作品を、見せてくれた。
茶色い、刷り物だった。
部屋の絵だ。
床に、四角い跡が、あった。
こちらは、言った。
ここ、へこんでるんですね。
その人は、言った。
へこんでません。
こちらは、聞いた。
穴じゃないんですか。
その人は、言った。
穴じゃない。
この技法は、柔らかい地に、物を押し当てて、剥がすんです。
剥がしたところが、跡になる。
でも、彫ってるわけじゃない。
地の高さは、跡の中も、外も、同じです。
こちらは、その絵を、近くで、見た。
四角い跡の中と、外で、面の肌理が、違った。
中は、細かい。
外は、粗い。
でも、どちらも、同じ紙の上だ。
こちらは、紙を、横から、見た。
紙は、まっすぐだった。
どこも、沈んでいない。
その人は、言った。
跡は、穴じゃない。
同じ面の上で、両側の育ち方が、違うだけです。
減ってもいないし、欠けてもいない。
こちらは、聞いた。
じゃあ、そこに、何かを、入れるんですか。
その人は、言った。
入れません。
入れるところが、無いので。
こちらは、その言葉を、その日、何度も、思い返した。
入れるところが、無い。
六十六年、入れるものを、探していた。
第四章 廊下
次の週、学校に、行った。
辞めたあとも、月に一度、手伝いに行っている。
古い校舎だ。
木の廊下が、ある。
そこを、歩いた。
歩きながら、床を、見た。
真ん中が、白い。
両端は、まだ、色が濃い。
六十年、子どもが、真ん中を歩いたからだ。
こちらは、しゃがんだ。
指で、なぞった。
段差が、無い。
白いところも、濃いところも、同じ高さだ。
こちらは、事務室の、自分の席を、見に行った。
もう、別の人が、座っている。
机の下の、床を、見た。
椅子の脚のところが、四つ、白くなっていた。
三十八年、座った跡だ。
こちらの椅子の跡だった。
手で、触った。
へこんでいない。
同じ高さだ。
そこで、こちらは、立ったまま、しばらく、いた。
いまの人の椅子は、少しずれた場所に、置いてある。
これから、別の四つが、白くなる。
こちらの四つの横に、並ぶ。
思った。
こちらの六十六年に、無いものは、たしかに多い。
夫も、子どもも、孫も、いない。
でも、無いから穴が空いている、わけではない。
穴なら、深さがある。
深さがあるなら、埋められる。
埋まらなかったのは、深さが、無かったからだ。
あったのは、差だ。
同じ六十六年の上で、こちらの面は、別の育ち方を、した。
持った人の面と、持たなかった人の面。
高さは、同じだ。
持った人の面にも、こちらには無い育ち方がある。
どちらも、同じ六十六年の上にある。
第五章 同級生
同級生と、会った。
三人で、昼を、食べた。
一人が、また、言った。
あなたは、身軽でいいわ。
こちらは、前なら、笑ってうなずいた。
その日は、言った。
身軽じゃ、ないよ。
二人が、こちらを、見た。
こちらは、言った。
あなたたちと、違う育ち方をしただけ。
減ってるわけじゃない。
一人が、聞いた。
どういうこと。
こちらは、言った。
学校の廊下、知ってるでしょう。
真ん中が、白くなってる。
二人は、うなずいた。
こちらは、言った。
あれ、へこんでないの。
白いだけ。
同じ高さなの。
こちらは、続けた。
私は、白いほうだと、思ってた。
減ってるって。
でも、へこんでなかった。
三十八年、あの床に、座ってた跡がある。
一人が、言った。
跡があるの。
こちらは、言った。
ある。
椅子の脚の跡が、四つ。
もう一人が、言った。
私たちにも、あるかな。
こちらは、言った。
ある。
みんな、違うところに、ある。
一人が、言った。
私の跡、台所かな。
もう一人が、言った。
私は、車の運転席。
三人で、笑った。
笑いながら、一人が、言った。
じゃあ、誰も、へこんでないんだ。
こちらは、言った。
へこんでない。
みんな、同じ高さ。
その日から、昼の話は、少し、変わった。
こちらも、話すことが、できた。
廊下の話と、椅子の脚の話を。
エピローグ
朝、起きる。
一人で、朝ごはんを、食べる。
六十六年、こうやってきた。
三十八年は、そのあと、学校に行った。
いまは、行かない日が、多い。
こちらの人生に、無いものは、多い。
それは、本当だ。
でも、穴では、なかった。
穴なら、埋めるものが要る。
埋まらないと、足りないままだ。
跡なら、埋めなくていい。
同じ面の上で、そこだけ、違う育ち方をしている。
高さは、同じだ。
学校の廊下の、真ん中と、両端。
どちらも、床だ。
どちらも、同じ厚さで、そこにある。
白いほうが、減っているのでは、ない。
子どもが、六十年、歩いた。
それだけだ。
こちらの席の下にも、四つ、跡がある。
いまも、そこに、ある。
三十八年、座った跡だ。
着付けも、俳句も、山も、埋めるためだと、思っていた。
埋めるものでは、なかった。
あれは、こちらの面の、育ち方だった。
これからも、登る。
埋めるためじゃ、ない。
登りたいから、登る。
登ると、足の裏に、その日の跡がつく。
それだけで、いい。
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