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空いた家

跡は、穴ではなかったこと

空いた家

朗読で聴く

第一章 空いた、と言っていた

七十三になった。

夫は、五年前に、七十で、死んだ。

子どもは、いない。

それから、一人で、この家にいる。

人に会うと、言っていた。

夫が死んで、家が、空いてしまって。

みんな、うなずいてくれた。

寂しいでしょう、と言われた。

寂しい、と答えた。

言うと、少し、落ち着いた。

名前のついた形に、なるからだ。

穴という形に。

空いた、という言葉を、五年、使った。

家に、穴が、あいたのだと、思っていた。

夫のいた場所が、そのまま、抜けた。

抜けたところは、へこんでいる。

へこんでいるから、何かで、埋めなければならない。

そう、思っていた。

埋めるものを、探した。

友だちと、旅行に行った。

習いごとを、二つ、始めた。

犬を飼おうかと、考えた。

朝から夕方まで、用事を、入れた。

家にいる時間を、短くした。

どれも、埋まらなかった。

埋まらないので、まだ穴が深いのだと、思った。

深いなら、もっと大きいものを、入れなければならない。

そう思って、五年、探していた。

第二章 畳の色

去年の秋、畳を、替えることにした。

三十年、替えていなかった。

畳屋が、来た。

古い畳を、上げた。

上げたあとの床を、見た。

畳屋が、言った。

ここ、色が、違いますね。

こちらは、見た。

部屋の、窓際の一畳ぶんだけ、床の色が、濃かった。

ほかは、薄い。

畳屋は、言った。

長いあいだ、物が、置いてあったところです。

日が、入らないので、焼けない。

周りだけ、焼けて薄くなる。

こちらは、言った。

夫の机が、ありました。

四十年。

畳屋は、言った。

じゃあ、それです。

こちらは、その床を、しゃがんで、見た。

濃いところと、薄いところの、境目が、はっきりしている。

指で、なぞった。

段差が、無い。

平らだ。

こちらは、聞いた。

へこんでませんね。

畳屋は、言った。

へこみませんよ。

色が、違うだけです。

同じ床です。

同じ高さです。

こちらは、もう一度、聞いた。

減ってないんですか。

畳屋は、言った。

減りません。

上に物があると、日に焼けない。

それだけです。

こちらは、その言葉を、その日、何度も、思い返した。

減りません、上に物があると、日に焼けない。

それだけです。

第三章 穴ではない

畳屋が帰ったあと、こちらは、床に、座った。

窓際の、濃いところに、手を、置いた。

四十年、夫の机が、あったところだ。

夫が、そこで、字を書いていた。

新聞を、読んでいた。

机を運び出したのは、葬式の次の月だ。

あの日、床には何も、変わったことが、無かった。

畳を敷いたままだったので、見えなかった。

その場所は、いま、机が無い。

でも、へこんでいない。

減っていない。

欠けていない。

同じ高さの床が、色だけ、違う。

こちらは、五年、穴だと、思っていた。

穴なら、深さがある。

深さがあるなら、何かを入れて、埋めなければならない。

旅行も、習いごとも、そのつもりだった。

埋まらないのは、当たり前だった。

穴では、なかったからだ。

入れるべき、深さが、無かった。

あったのは、色の差だ。

日の当たり方が、四十年、違っただけだ。

床は、どちらも、同じ厚さで、そこにある。

濃いところも、床だ。

薄いところも、床だ。

どちらも、減っていない。

こちらは、そこで、少し、泣いた。

五年、穴を埋めようとして、疲れていた。

埋めなくていいのだと、思った。

埋めるものを探していた五年は、深さを信じていた五年だ。

深さが無いと分かると、探すものも、無くなった。

第四章 家の中の差

それから、家の中を、見て回った。

同じような差が、いくつも、あった。

台所の、流しの前。

立つところの床の板だけ、少し、白い。

こちらが、五十年、立っていた。

廊下の、仏壇の前。

そこだけ、板が、なめらかだ。

夫が、毎朝、座っていた。

茶の間の、こちらの座るところ。

畳が、そこだけ、毛羽立っている。

夫の座っていたところも、同じだ。

二つ、並んでいる。

こちらの跡と、夫の跡が、同じ畳の上に、並んでいる。

どちらも、毛羽立っているだけだ。

どれも、へこんでいない。

なめらかなところも、毛羽立ったところも、同じ高さだ。

こちらは、思った。

家の中には、こういう差が、いっぱいある。

人がいたところと、いなかったところ。

立ったところと、立たなかったところ。

どれも、同じ床の上の、違う育ち方だ。

育ち方が違うだけで、どれも、家の床だ。

夫の跡も、こちらの跡も、同じ厚さの上にある。

夫の分だけ、床が薄くなったわけでは、ない。

夫が死んで、家が減ったわけでも、ない。

家は、同じ大きさで、そこにある。

変わったのは、これから、どこが、どう育つかだ。

夫の座っていたところは、これから、毛羽立たない。

止まるだけだ。

消えるのでは、ない。

第五章 妹

妹が、来た。

六十九だ。

新しい畳を、見せた。

妹は、言った。

きれいになったね。

こちらは、言った。

下の床、見た。

濃いところがあった。

旦那さんの机のところ。

妹は、言った。

残ってたんだ。

こちらは、言った。

残ってた。

でも、へこんでなかった。

同じ高さだった。

妹は、こちらを、見た。

こちらは、言った。

私、五年、空いたって言ってた。

妹は、言った。

言ってた。

こちらは、言った。

空いてなかった。

穴じゃなかった。

色が違うだけだった。

妹は、しばらく、黙った。

妹は、言った。

それ、埋めなくていいってこと。

こちらは、言った。

埋めなくていい。

埋めるところが、無い。

妹は、言った。

じゃあ、旅行は。

こちらは、言った。

行きたければ、行く。

埋めるためじゃなく。

妹は、笑った。

こちらも、笑った。

妹は、帰りぎわに、言った。

うちにも、あるかな。

こちらは、言った。

ある。

人がいる家には、どこにでも、ある。

妹は、帰って、その晩、電話してきた。

妹は、言った。

うちも、あった。

母さんの座ってたところ。

こちらは、言った。

へこんでた。

妹は、言った。

へこんでなかった。

こちらは、言った。

同じ高さでしょう。

妹は、言った。

同じ高さ。

エピローグ

朝、起きる。

新しい畳の上を、歩く。

畳は、まだ、青い。

窓際の、机のあったところも、いまは、青い。

でも、下の床は、濃いままだ。

見えないけれど、ある。

こちらは、それを、知っている。

知っていれば、上に何を置いても、いい。

埋めるためでは、ないからだ。

五年、穴だと、思っていた。

深さがあって、埋めなければならないと。

穴では、なかった。

同じ床の上で、そこだけ、違う育ち方を、していた。

夫がいた四十年、そこには日が入らなかった。

それだけだ。

減っても、欠けても、いない。

こちらの立っていた流しの前も、同じだ。

人がいたところは、色が変わる。

変わるだけで、無くならない。

これから、こちらが、どこに座るか。

そこが、また、少し、色を変える。

床は、同じ高さのままだ。

空いていない。

空いた、とは、もう言わない。

夫のいたところは、色が違う。

それが、こちらの言い方だ。

言い方を変えると、家の形が、変わった。

家は、何も、変わっていないのに。

ソウルミッション358

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