光が動いた
影の中にも、物はあったこと

朗読で聴く
第一章 机
七十一になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
五十年、工場の事務で、働いた。
二十一から、七十一まで。
去年の春に、辞めた。
こちらの人生は、あの机だった。
朝、八時に、座る。
夕方、五時半に、立つ。
五十年。
机の上に、光が、当たっていた。
そこだけが、はっきり、していた。
帳簿。電話。棚の書類。
名前が、あった。
役が、あった。
人が、来た。
あの机に座っていれば、こちらは、自分が、誰か、分かっていた。
家のことは、影だった。
妻がいて、子どもが二人いて、庭があった。
あったのは、知っている。
でも、光は、当たっていなかった。
帰って、飯を食って、寝た。
土曜は、庭の草を、抜いた。
日曜は、散歩した。
それだけの、影だ。
何も、無いところだと、思っていた。
机が、こちらの人生で、あとは、その周りの暗がりだ。
妻にも、そう言ったことが、ある。
俺には、仕事しか、無い。
妻は、そう、と言った。
それだけだった。
第二章 辞めた日
辞めた日、机を、片付けた。
引き出しを、全部、空にした。
紙を、捨てた。
最後に、部屋を、出た。
電気を、消した。
机が、暗くなった。
こちらは、そこで、少し、立っていた。
暗くなった机は、机の形のまま、そこに、あった。
見えないだけで、消えては、いない。
そのときは、そう、思わなかった。
次の日の朝、八時に、目が覚めた。
座る机が、無い。
家にいる。
妻が、コーヒーを、出した。
こちらは、飲んだ。
何を、するか、分からなかった。
午前が、長かった。
午後は、もっと、長かった。
妻は、いつもと同じに、動いていた。
洗濯をして、昼を作って、買い物に行った。
こちらは、その横で、座っていた。
座って、何も、していなかった。
妻の一日には、形が、あった。
こちらの一日には、形が、無かった。
一週間、そうだった。
一か月、そうだった。
朝、八時に、目が覚めるのは、変わらなかった。
起きて、座る場所が、無い。
椅子は、家にもある。
でも、そこには、光が、当たっていない。
こちらは、思った。
光が、消えた。
人生が、終わった。
残りは、暗がりだけだ。
第三章 見えてきた
三か月たった、ある朝のことだ。
妻が、台所で、コーヒーを、いれていた。
こちらは、それを、見ていた。
妻は、豆を、量って、湯を、回して、二分、待った。
こちらは、聞いた。
いつも、そうやって、いれてたのか。
妻は、言った。
四十五年、そう。
こちらは、黙った。
四十五年、毎朝、この台所で、これを、していた。
こちらは、その、一杯を、飲んでいた。
飲んでいたのに、いれるところを、見たことが、無かった。
朝、机に、行っていたからだ。
そのころ、光は、机に、当たっていた。
台所は、影だった。
影の中で、妻が、豆を量り、湯を回し、二分、待っていた。
毎朝だ。
四十五年。
こちらは、それを、知らなかった。
無かったのでは、ない。
見ていなかっただけだ。
その日から、こちらは、家の中を、見るようになった。
庭の隅に、妻が植えた木が、三本、あった。
いつ植えたか、覚えていない。
妻は、覚えていた。
上の子が生まれた年と、下の子が生まれた年と、こちらの父が死んだ年。
三本とも、こちらの家の出来事の年に、植わっていた。
こちらは、五十年、その庭を、歩いていた。
毎週の土曜に、草を抜きながら、歩いていた。
歩いて、木を、見ていなかった。
妻に、聞いた。
俺が、知らないことは、ほかにも、あるか。
妻は、少し、笑って、言った。
たくさん。
こちらは、言った。
教えてくれ。
妻は、言った。
これから、見ればいい。
どこにも、行かないから。
第四章 息子
息子が、来た。
四十四だ。
こちらは、言った。
辞めてから、何も、無い。
息子は、言った。
何も、無いの。
こちらは、言った。
仕事が、人生だった。
それが、終わった。
息子は、庭を、見て、言った。
あの木、父さんが、支柱を立てたでしょう。
こちらは、言った。
立てたか。
息子は、言った。
立てた。
俺、手伝った。
十くらいのとき。
こちらは、覚えていなかった。
土曜の庭のことを、こちらは、休みだと思っていた。
仕事の合間の、何も無い時間だと。
息子は、言った。
父さん、覚えてないでしょう。
こちらは、言った。
覚えてない。
息子は、言った。
俺は、覚えてる。
父さんが、土曜に、庭にいた。
俺は、その横に、いた。
あれが、俺の父さんだよ。
机の父さんは、俺、見たこと、無い。
こちらは、そこで、長く、黙った。
息子は、言った。
父さんの光は、机に当たってた。
俺から見たら、机のほうが、影だった。
見えないところで、何か、してるんだろうなって。
こちらは、言った。
反対か。
息子は、言った。
反対。
こちらは、聞いた。
お前から見て、俺の五十年は、どうだった。
息子は、言った。
庭にいる父さんと、散歩の父さん。
それが、全部だよ。
俺にとっては、それが、光だった。
第五章 同じ部屋
息子が、帰ったあと、庭に、出た。
木を、三本、見た。
支柱の跡が、あった。
縄の跡が、幹に、残っていた。
こちらが、立てた支柱だ。
覚えていないが、跡は、ある。
こちらは、思った。
影の中には、何も無いと、思っていた。
違った。
同じ部屋だった。
机のある部屋に、棚も、椅子も、戸も、ある。
光が、机にしか、落ちていなかった。
落ちていない場所にも、物は、あった。
妻の朝のコーヒー。
三本の木。
息子の横に、いた土曜。
どれも、五十年、続いていた。
続いていたのに、数えたことが、無かった。
全部、影の中に、あった。
息子が、見ていたのも、そこだ。
息子の光と、こちらの光は、違う場所に、落ちていた。
同じ家の、同じ五十年に。
いま、机の光が、消えた。
消えたのは、光だ。
物では、ない。
光は、消えたのではなく、動いたのかもしれない。
こちらの手元に、動いた。
手元に、何が、あるか。
台所。庭。息子。妻。
五十年、影だったところだ。
そこに、物が、ある。
五十年、そこにあった物が。
こちらは、それを、いまから、見る。
人生が、終わったのでは、なかった。
終わったのは、机の光だ。
エピローグ
朝、台所に、立つ。
妻が、コーヒーを、いれる。
こちらは、横で、見ている。
豆を、量る。
湯を、回す。
二分、待つ。
四十五年、こうしていた。
こちらは、見ていなかった。
光が、机に、当たっていたからだ。
机の光は、消えた。
人生が、終わったと、思った。
終わっては、いなかった。
影の中に、同じ家が、あった。
同じ人が、いた。
同じ朝が、毎日、あった。
こちらが、見ていなかっただけだ。
光が、机から、動いた。
動いた先に、台所がある。
庭がある。
木が、三本ある。
支柱の跡が、幹に、残っている。
こちらが、立てた。
覚えていないが、立てた。
影の中で、こちらも、何かを、していた。
支柱を、立てていた。
息子の横に、いた。
こちらの影の中にも、物は、あった。
それが、いま、見える。
二分、待つ。
コーヒーが、できる。
二人で、飲む。
これが、いまの、光だ。
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