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下の子の十二年

影の中にも、物はあったこと

下の子の十二年

朗読で聴く

第一章 上の子の十二年

六十八になった。

子どもが、二人いる。

上が、娘で、四十二。

下が、息子で、三十八。

娘は、六つのとき、腎臓の病気に、なった。

そこから、十二年、病院に、かよった。

月に二度。

悪くなると、入院した。

こちらは、付き添った。

仕事は、辞めた。

十二年、娘のことだけを、していた。

朝、起きて、娘の薬を、量る。

食事を、別に、作る。

尿の色を、見る。

病院の日は、電車で、一時間半。

帰って、また、薬。

そればかりだった。

娘は、十八で、落ち着いた。

いまは、元気だ。

子どもも、いる。

こちらの人生は、あの十二年だと、思っている。

あの十二年が、光だ。

ほかのことは、覚えていない。

下の息子のことも、覚えていない。

息子は、そのあいだ、二つから、十四だった。

こちらは、息子に、何も、していない。

運動会も、行かなかった。

参観日も、行かなかった。

行った日が、一日も、思い出せない。

そう、思っていた。

第二章 何もない

息子は、いま、隣の県に、いる。

年に、二度、来る。

正月と、盆だ。

来ても、長くは、いない。

昼に来て、夕方に、帰る。

悪いことを、したからだと、思っていた。

こちらは、ずっと、思っていた。

あの子には、悪いことを、した。

姉のことで、手いっぱいで、何も、してやれなかった。

あの子の十二年は、空っぽだ。

親のいない、十二年だ。

この前、来たとき、言った。

あんたの子どものころ、何も、してあげられなかった。

息子は、言った。

別に。

こちらは、言った。

覚えてないでしょう、あのころのこと。

息子は、言った。

覚えてるよ。

こちらは、聞いた。

何を。

息子は、少し、考えて、言った。

全部。

第三章 息子の十二年

息子は、話し始めた。

朝、母さんが、姉ちゃんの薬を量ってる音で、起きた。

台所で、カチッ、カチッて、音がする。

あれで、目が覚めた。

俺は、自分で、パンを焼いてた。

こちらは、聞いた。

自分で。

息子は、言った。

小二から。

焼いて、牛乳、出して、食べて、学校、行った。

母さんは、姉ちゃんのほうにいた。

こちらは、黙った。

息子は、言った。

学校から帰ると、誰もいない日が、あった。

病院の日だ。

鍵は、植木鉢の下にあった。

開けて、入って、宿題して、テレビ見て、待ってた。

六時ごろ、帰ってくる。

音で、分かる。

自転車の音。

あれを、待ってた。

こちらは、言った。

そんなに、待ってたの。

息子は、言った。

待ってた。

でも、寂しかったって話じゃ、ない。

毎日、そうだったから、そういうもんだと思ってた。

息子は、続けた。

俺、中学で、陸上やってた。

覚えてる。

こちらは、言った。

覚えてる。

息子は、言った。

大会、来てくれなかった。

三年で、一回も。

こちらは、言った。

行けなかった。

息子は、言った。

知ってる。

姉ちゃんが、入院してた。

俺、それも、分かってた。

だから、言わなかった。

結果だけ、紙に書いて、冷蔵庫に、貼っといた。

こちらは、聞いた。

貼ってた。

息子は、言った。

三年間。

母さん、見てた。

一回、剥がして、引き出しに入れてたでしょう。

俺、見たよ。

こちらは、聞いた。

どうして、何も、言わなかったの。

息子は、言った。

言ったら、母さんが、困るでしょう。

姉ちゃんの病院、休めないんだから。

こちらは、黙った。

息子は、言った。

俺、困らせない係だった。

小二のときから、そう決めてた。

第四章 同じ形

こちらは、その紙のことを、思い出した。

いま、引き出しに、ある。

三十枚くらい、ある。

息子の字だ。

百メートル、十四秒二。

県大会、八位。

こちらは、それを、一枚ずつ、見た。

見たあと、しまった。

しまって、忘れた。

忘れたのでは、ないかもしれない。

見えるところに、置いておくと、目に入る。

目に入ると、大会のことを、思う。

だから、引き出しに、入れた。

覚えているのは、娘の薬の量だ。

朝、五ミリグラム。

夜、二・五ミリグラム。

十二年、量った。

その数字は、いまでも、言える。

息子の記録は、一つも、言えない。

こちらは、息子に、言った。

あんたの十二年は、何も無かったと、思ってた。

息子は、言った。

あったよ。

俺の中では、毎日、いろいろ、あった。

パンを焼いて、鍵を開けて、宿題して、走って。

母さんが、姉ちゃんにしてたのと、同じくらい、毎日、何かしてた。

こちらは、言った。

同じくらい。

息子は、言った。

同じだよ。

朝起きて、夜寝るまで。

姉ちゃんの一日と、俺の一日は、同じ長さだ。

こちらは、それを、聞いて、座り直した。

同じ長さ。

それは、そうだ。

同じ十二年だ。

同じ家で、同じ朝、同じ夜。

こちらが、見ていた場所が、片方だけ、だった。

息子の十二年は、空っぽでは、なかった。

こちらの目から、見えていなかった。

見えないことを、無いことだと、思っていた。

無いことにすれば、申し訳なさだけで、済む。

中身を、一つずつ、知らなくて、済む。

知れば、行かなかった大会が、三年ぶん、数えられる。

第五章 冷蔵庫

息子が、帰ったあと、引き出しの紙を、出した。

三十二枚、あった。

数えた。

日付が、書いてある。

一枚ずつ、読んだ。

一年生の春から、三年生の秋まで。

記録が、少しずつ、伸びている。

最後の一枚は、県大会、八位だった。

その下に、小さく、書いてある。

母さん、来なくていいよ。

こちらは、そこで、止まった。

来なくていい、と書いてある。

書いた子は、来てほしかったのだと、思う。

でも、言わない子だった。

言わないので、こちらは、知らなかった。

こちらは、電話した。

息子に、言った。

紙、全部、あった。

三十二枚。

息子は、言った。

まだ、あったんだ。

こちらは、言った。

最後のに、来なくていいよ、って書いてある。

息子は、しばらく、黙った。

息子は、言った。

書いた。

こちらは、言った。

来てほしかったでしょう。

息子は、言った。

うん。

こちらは、言った。

ごめんね。

息子は、言った。

いいよ。

もう、三十八だから。

こちらは、言った。

いまから、行くのは、無理だけど。

紙は、冷蔵庫に、貼っておく。

息子は、笑った。

息子は、言った。

三十年遅いよ。

こちらは、言った。

遅い。

息子は、言った。

でも、貼って。

こちらは、言った。

貼る。

エピローグ

朝、台所に、立つ。

冷蔵庫に、紙が、三十二枚、貼ってある。

息子の字だ。

百メートル、十四秒二。

毎日、見る。

娘の薬の量は、いまでも、言える。

朝、五ミリグラム。

夜、二・五ミリグラム。

あの十二年は、こちらの光だった。

光の当たっていた一箇所だ。

その外に、息子が、いた。

影だと、思っていた。

何も無いと、思っていた。

無かったのでは、ない。

パンを焼いて、鍵を開けて、宿題をして、走っていた。

毎日、朝から、夜まで。

同じ家の中で、同じ十二年を。

小さいだけだった。

見えなかっただけだった。

光の外にも、同じ長さの毎日が、あった。

こちらは、それを、三十年、知らなかった。

いま、冷蔵庫に、貼ってある。

一枚ずつ、字が、読める。

十四秒二。

八位。

小さい字だ。

小さいだけで、消えては、いなかった。

ソウルミッション358

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