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同じ家にいた

影の中にも、物はあったこと

同じ家にいた

朗読で聴く

第一章 光の当たっていた机

七十四になった。

妻は、去年の秋に、七十一で、死んだ。

こちらは、三十年、同じ会社に、いた。

設計の仕事だ。

毎晩、遅かった。

十時、十一時。

帰ると、妻は、起きていた。

飯を、出してくれた。

こちらは、食べて、寝た。

朝、早く、出た。

三十年、それだった。

こちらの三十年は、会社の机だ。

光は、そこに、当たっていた。

図面と、鉛筆と、定規。

そこだけ、はっきり、覚えている。

妻の三十年は、何だったか。

聞いたことが、ある。

こちらは、聞いた。

お前、この三十年、何してた。

妻は、笑って、言った。

何も。

こちらは、そうか、と言った。

それきりだった。

妻の三十年は、影だと、思っていた。

何も無い、暗いところだ。

こちらが、光の中で働いて、妻は、影の中に、いた。

悪いと、思っていた。

何も無いところに、置いていたと。

こちらが、光を、独り占めにしていたと。

その悪さも、影を空っぽだと決めた上での悪さだった。

第二章 家の中

妻が、死んで、家に、一人になった。

片付けを、始めた。

台所から、始めた。

物が、多い。

鍋が、五つ。

包丁が、三本。

布巾が、十枚。

どれも、使い込んである。

柄が、手の形に、減っている。

鍋の底が、黒い。

三十年、火に、当たった黒だ。

こちらは、そこで、手を、止めた。

これは、妻の三十年だ。

鍋が減ったのは、三十年、煮炊きをしたからだ。

こちらは、その鍋を、知らなかった。

毎晩、飯は、食べていた。

食べていたのに、鍋を、見ていなかった。

茶の間に、行った。

箪笥の、引き出しを、開けた。

こちらの下着が、たたんである。

角が、そろっている。

三十年、毎日、たたまれていた。

こちらは、それも、知らなかった。

朝、出すとき、そこにあるだけだった。

押し入れを、開けた。

布団が、二組。

毎日、上げ下ろしを、していた。

妻が、一人で。

こちらは、その布団に、三十年、寝た。

上げるところも、下ろすところも、見ていない。

押し入れの、奥に、箱が、あった。

開けた。

こちらの、古い作業服が、あった。

三十年前の、会社の服だ。

洗って、たたんで、しまってあった。

こちらは、捨てたと、思っていた。

第三章 同じ部屋

こちらは、部屋の真ん中に、座った。

思った。

妻の三十年は、影だった。

それは、本当だ。

こちらの目から見て、影だった。

でも、影の中に、何も無かったのでは、ない。

鍋が、あった。

包丁が、あった。

布巾が、あった。

布団が、あった。

こちらの下着が、あった。

全部、ここに、ある。

影の中にも、物は、あった。

見えなかっただけだ。

こちらは、若いころ、版画を、見たことが、ある。

アクアチントという、銅版画だ。

友人が、彫っていた。

部屋の絵だった。

机の上だけ、明るい。

ほかは、全部、黒い。

こちらは、言った。

こっちは、何も無いんだね。

友人は、言った。

無いんじゃない。

光が、当たってないだけだ。

こちらは、聞いた。

中に、何か、あるの。

友人は、言った。

ある。

同じ部屋だからな。

机がある部屋には、棚も、椅子も、戸も、ある。

光が、机にしか、落ちていない。

それだけだ。

こちらは、そのとき、そうか、と思っただけだった。

三十年、忘れていた。

友人は、もう一つ、言っていた。

影のところも、同じだけ、時間をかけて、腐蝕させる。

何も彫らないのでは、ない。

深く、彫る。

第四章 息子

息子に、電話した。

四十五だ。

息子は、来た。

台所で、話した。

こちらは、言った。

母さんの三十年、何だったんだろうな。

息子は、言った。

俺、知ってるよ。

こちらは、聞いた。

知ってるのか。

息子は、言った。

毎日、見てた。

俺が学校から帰ると、母さんは、台所にいた。

夕方、洗濯物を、取り込んでた。

六時に、飯を作ってた。

八時に、俺を風呂に入れた。

九時に、俺を寝かせた。

それから、父さんの飯を、温め直してた。

十時か、十一時まで、起きてた。

毎日だよ。

こちらは、黙った。

息子は、言った。

父さんは、それ、知らないでしょう。

こちらは、言った。

知らない。

息子は、言った。

父さんが帰ってくる音がすると、母さんが、立つんだ。

それを、毎晩、聞いてた。

こちらは、聞いた。

お前、起きてたのか。

息子は、言った。

目は、覚めてた。

父さんは、俺が寝てると思ってた。

こちらは、また、黙った。

息子は、言った。

母さんのことも、俺のことも、父さんは、影だと思ってたでしょう。

こちらは、言った。

思ってた。

息子は、言った。

影の中にも、同じ時間が、流れてたよ。

こちらは、聞いた。

お前は、どうだった。

息子は、言った。

俺も、影だったと思うよ。

でも、俺の中では、毎日、いろいろ、あった。

友達と、けんかしたり、試験に落ちたり。

父さんは、一つも、知らないでしょう。

こちらは、言った。

知らない。

息子は、言った。

無かったわけじゃ、ない。

第五章 同じ時間

息子が、帰ったあと、こちらは、また、座った。

同じ時間が、流れていた。

こちらが、机で図面を引いている、その時間に、妻は、洗濯物を取り込んでいた。

こちらが、会議に出ている、その時間に、妻は、飯を作っていた。

こちらが、電車に乗っている、その時間に、妻は、息子を寝かせていた。

同じ三十年だ。

長さも、同じだ。

妻の三十年は、こちらの三十年と、同じ長さだった。

同じ形のことを、していた。

毎日、決まった時間に、決まったことを。

こちらの仕事と、同じ形だ。

小さいだけだ。

人に、見えないだけだ。

給料が、出ないだけだ。

形は、同じだった。

妻は、何も、と言った。

あれは、何も無いという意味では、なかった。

言う名前が、無いという意味だ。

こちらの仕事には、名前が、あった。

設計だ。

妻のには、名前が、無かった。

名前が無いので、何も、と言った。

こちらは、それを、そのまま、聞いた。

聞いて、三十年、確かめなかった。

鍋を見れば、分かった。

布団を上げるところを、一度見れば、分かった。

見なかった。

光が、こちらの机にしか、落ちていなかった。

落ちていない場所を、こちらは、無いことにした。

無いことにすれば、見に行かなくて、いい。

見に行かなければ、悪いとも、思わなくて、いい。

悪いと思っていたのは、本当ではなかった。

悪いと思っていれば、見なくて済む。

エピローグ

朝、起きる。

布団を、自分で、上げる。

重い。

三十年、妻が、毎日、これを、上げていた。

台所に、立つ。

鍋を、使う。

柄が、手の形に、減っている。

妻の手の形だ。

こちらの手には、合わない。

合わないまま、使う。

影の中には、何も無いと、思っていた。

妻の三十年は、暗い、空っぽの時間だと。

違った。

物は、全部、あった。

鍋も、包丁も、布団も、息子も。

光が、こちらの机にだけ、落ちていた。

当てたのは、こちらだ。

当てる先を、こちらが、決めていた。

いまは、光が、こちらの手元にしか、無い。

台所と、押し入れと、箪笥。

三十年、影だったところだ。

そこに、物が、いっぱいある。

妻が、毎日、触っていた物だ。

一つずつ、触る。

妻の三十年に、いまごろ、光を、当てている。

遅い。

遅くても、当てる。

影の中にも、物は、あった。

ソウルミッション358

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