息子の刷毛
むらは、光ではなく、塗った刷毛の跡だったこと

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第一章 こちらの刷毛
七十六になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
若いころ、建築の事務所で、青写真を、焼いていた。
紙に、液を、刷毛で塗る。
乾かして、図面を、重ねて、日に、当てる。
青くなる。
むらが、出る。
濃いところと、淡いところだ。
光は、同じだ。
むらは、塗った刷毛で、決まる。
厚く塗れば、濃く出る。
薄く塗れば、淡く出る。
それを、若いころから、知っていた。
息子が、一人いる。
五十だ。
息子の人生には、むらが、あった。
濃い年と、淡い年だ。
二十代は、濃かった。
三十代の初めに、淡くなった。
仕事を、辞めた。
しばらく、何も、しなかった。
四十で、また、濃くなった。
四十代の終わりに、また、淡くなった。
こちらは、そのむらを、自分の刷毛だと、思っていた。
息子が、小さいころ、こちらは、むらのある父だった。
仕事が忙しい年は、息子に、薄く塗った。
暇な年は、厚く塗った。
息子の紙に、こちらが、むらのある塗り方を、した。
光は、あとから、来る。
息子の人生の光は、同じだったはずだ。
むらが出たのは、こちらが、むらに塗ったからだ。
そう、思っていた。
五十年、そう、思って、悔いていた。
妻は、十年前に、死んだ。
妻は、生きているとき、言っていた。
あの子のむらは、あなたのせいじゃない。
こちらは、信じなかった。
刷毛のことを、知っているのは、こちらだけだと、思っていた。
第二章 息子が来た
息子が、来た。
久しぶりだった。
いま、淡い時期だ。
仕事を、また、辞めた。
顔を見れば、分かる。
淡い。
こちらは、言おうと、決めていた。
お前のむらは、俺の刷毛だ。
小さいころ、俺が、むらに塗った。
お前のせいじゃない。
台所で、コーヒーを、出した。
息子の靴は、古かった。
鞄も、古かった。
淡い年の、靴と鞄だ。
息子は、飲んだ。
こちらは、言った。
お前の、濃い年と、淡い年のことだ。
息子は、言った。
ああ。
こちらは、言った。
あれは、俺の刷毛だ。
息子は、聞いた。
刷毛。
こちらは、言った。
青写真の話だ。
光は、同じだ。
むらは、塗った刷毛だ。
お前が小さいころ、俺は、忙しい年と、暇な年で、塗り方が、違った。
薄く塗った年と、厚く塗った年が、ある。
だから、お前の人生に、むらが、出た。
お前のせいじゃない。
俺の刷毛だ。
言おうと、思って、五十年、言えなかった。
息子は、黙って、聞いていた。
聞き終わって、言った。
違うよ。
第三章 息子の話
息子は、言った。
父さんは、同じだった。
こちらは、言った。
同じじゃない。
忙しい年と、暇な年で、違った。
息子は、言った。
違わない。
忙しい年も、暇な年も、父さんは、同じだった。
朝、俺の頭に、手を、置いた。
夜、帰ってきて、もう一回、置いた。
それだけだった。
忙しい年も、それだけ。
暇な年も、それだけ。
忙しい年は、手が、少し、冷たかった。
外から、帰ったばかりの手だ。
でも、置いた。
置かなかった日は、無い。
こちらは、黙った。
息子は、言った。
父さんは、光だった。
同じ光だった。
むらは、無かった。
こちらは、言った。
じゃ、お前のむらは、何だ。
息子は、言った。
俺の刷毛だ。
こちらは、聞いた。
お前の。
息子は、言った。
俺が、塗った。
二十代は、厚く塗った。
何でも、やった。
三十で、薄くした。
疲れて、薄くした。
四十で、また、厚くした。
いま、薄い。
俺が、自分の紙に、塗ってる。
厚くしたり、薄くしたり。
父さんの光は、同じだった。
いつも、同じ光が、当たってた。
俺の刷毛で、濃くも、淡くも、なってた。
こちらは、何も、言えなかった。
第四章 反対
五十年、こちらは、思っていた。
息子のむらは、こちらの刷毛だ。
息子の紙に、こちらが、むらに塗った。
反対だった。
こちらは、刷毛を、持っていなかった。
こちらは、光だった。
同じ光を、当てていただけだ。
朝と夜、頭に手を置く。
忙しい年も、暇な年も、それだけ。
それが、同じ光だった。
刷毛を持っていたのは、息子だった。
息子が、自分の紙に、塗っていた。
厚く、薄く、厚く、薄く。
それで、濃い年と、淡い年が、出た。
こちらは、それを、見て、自分の刷毛だと、思った。
悔いた。
五十年、悔いた。
持っていない刷毛を、悔いていた。
息子は、言った。
父さん、悔いてたの。
こちらは、言った。
悔いてた。
息子は、言った。
俺、父さんのせいにしたこと、一度も、無いよ。
こちらは、言った。
無いのか。
息子は、言った。
無い。
自分の刷毛だって、分かってた。
母さんも、言ってた。
お父さんは、同じ光だって。
あなたが、自分で、塗ってるんだって。
薄く塗ったのは、俺だ。
でも、光は、同じだった。
だから、また、厚く塗れた。
四十のとき、厚く塗れたのは、光が、同じだったからだ。
こちらは、黙った。
息子は、言った。
いまも、光は、同じでしょう。
こちらは、言った。
同じだ。
息子は、言った。
じゃ、また、厚く塗れる。
第五章 光
息子は、二日、いた。
朝、こちらは、息子の頭に、手を、置いた。
五十の頭だ。
息子は、笑った。
息子は、言った。
同じだ。
こちらは、言った。
同じだ。
夜、もう一回、置いた。
息子は、言った。
同じだ。
帰る朝、息子は、言った。
父さんの刷毛は、無かったんだよ。
あったのは、光だけ。
こちらは、言った。
光だけか。
息子は、言った。
光だけで、いい。
刷毛は、自分で、持つ。
こちらは、言った。
いまは、薄いな。
息子は、言った。
薄い。
でも、俺の刷毛だ。
光は、同じだから、厚くする。
息子は、帰った。
玄関で、息子の頭に、もう一度、手を、置いた。
息子は、何も、言わずに、うなずいた。
こちらは、台所に、座った。
五十年、悔いていた刷毛は、こちらの手に、無かった。
こちらの手にあったのは、光だ。
同じ光だ。
むらを作ったのは、こちらではない。
息子が、自分の刷毛で、作った。
むらは、息子のものだ。
息子は、それを、知っていた。
知らなかったのは、こちらだけだ。
悔いていた五十年も、こちらの刷毛では、なかった。
悔いは、光に、むらを、作らなかった。
作らなかったから、息子は、また、厚く塗れた。
エピローグ
朝、起きる。
息子は、いない。
頭に手を置く相手が、いない。
それでも、同じだ。
こちらは、光だ。
同じ光を、当てるだけだ。
妻が、そう言っていた。
息子が、そう言った。
こちらだけが、知らなかった。
むらは、作らない。
作れない。
刷毛は、息子の手にある。
濃い年も、淡い年も、息子が、塗った。
こちらは、五十年、自分の刷毛だと、思っていた。
むらのある父だと、思っていた。
持っていない刷毛を、悔いていた。
反対だった。
むらの無い光だった。
息子が、そう言った。
いま、息子は、薄い。
息子の刷毛で、薄い。
こちらは、同じ光を、当てる。
電話で、いつもと同じ声で、話す。
それだけだ。
光が同じなら、息子は、また、厚く塗れる。
四十のときに、そうだった。
塗るのは、息子だ。
こちらは、同じでいる。
それが、こちらの、全部だ。
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