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朝の厚み

むらは、光ではなく、塗った刷毛の跡だったこと

朝の厚み

朗読で聴く

第一章 夫のむら

七十になった。

夫は、七十三だ。

四十五年、いっしょに、いる。

夫には、むらが、あった。

機嫌の、むらだ。

濃い日と、淡い日が、ある。

濃い日は、口数が、多い。

よく、笑う。

淡い日は、黙っている。

新聞を、見ている。

話しかけても、うん、としか、言わない。

四十五年、そうだった。

こちらは、それを、夫の性質だと、思っていた。

そういう人だ。

天気のようなものだ。

晴れの日と、曇りの日が、ある。

こちらには、どうにも、できない。

淡い日は、黙って、そばにいた。

濃い日は、いっしょに、笑った。

天気に、合わせるように、合わせていた。

四十五年、そうやって、暮らした。

淡い日は、こちらまで、淡くなった。

娘が、一人いる。

四十だ。

娘は、電話で、聞く。

お父さん、今日、どっち。

こちらは、答える。

今日は、淡い。

娘は、言う。

じゃ、明日にする。

そういう家だった。

夫のむらは、夫のものだ。

光は、向こうから、来る。

そう、思っていた。

第二章 家にいる夫

夫が、辞めて、三年になる。

三年、毎日、家にいる。

勤めているときは、朝、出て、夜、帰った。

夫の一日を、こちらは、見ていなかった。

朝の顔と、夜の顔だけを、見ていた。

夜の顔が、濃いか、淡いかで、その日の夫を、決めていた。

家にいると、一日じゅう、見える。

朝から、夜まで。

三年、見ていて、気がついた。

夫のむらは、朝に、決まっている。

朝、濃ければ、夜まで、濃い。

朝、淡ければ、夜まで、淡い。

途中で、変わることは、ほとんど、無い。

数えた。

一か月で、濃い日が、十二。

淡い日が、十八。

次の月も、同じくらいだった。

こちらは、朝を、見るように、なった。

朝、何が、違うのか。

夫は、同じ時間に、起きる。

同じ茶碗で、同じ飯を、食う。

同じ新聞を、読む。

夫のほうは、同じだ。

違うのは、こちらだった。

朝の、こちらの手だった。

第三章 刷毛

若いころ、写真屋の、手伝いを、した。

青写真を、焼く店だった。

紙に、液を、刷毛で、塗る。

乾かして、図面を、重ねて、光に、当てる。

店の人が、言っていた。

光は、同じだ。

むらが出るのは、塗り方だ。

刷毛が、厚く通ったところは、濃く出る。

薄く通ったところは、淡く出る。

光のせいに、するな。

自分の刷毛を、見ろ。

刷毛のむらは、塗った本人には、見えない。

焼いて、初めて、見える。

こちらは、それを、思い出した。

朝の、こちらを、見た。

起きて、台所に、立つ。

味噌汁を、作る。

夫が、来る。

おはよう、と言う日と、言わない日が、ある。

味噌汁が、熱い日と、ぬるい日が、ある。

夫が何か言ったとき、すぐ答える日と、少し置いてから答える日が、ある。

こちらは、それを、意識したことが、無かった。

手が、そうしていた。

声が、そうしていた。

三年、見ていて、分かった。

おはようを言って、味噌汁が熱くて、すぐ答えた日は、夫は、濃い。

言わなくて、ぬるくて、置いてから答えた日は、夫は、淡い。

光は、夫だ。

同じ光だ。

毎朝、同じ時間に、起きて、同じ飯を、食う。

むらは、光ではなかった。

こちらが、朝に、塗っている厚みだった。

第四章 四十五年

こちらは、四十五年を、思った。

淡い日、夫のそばで、黙っていた。

天気だと、思って、黙っていた。

その朝、こちらは、何を、していたか。

覚えていない。

でも、たぶん、薄く、塗っていた。

おはようを、言わなかった。

味噌汁が、ぬるかった。

答えるまで、少し、待たせた。

こちらの、機嫌だ。

こちらの機嫌が、薄い朝に、薄く塗った。

夫は、薄く塗られた紙に、同じ光で、淡く、出た。

こちらは、それを、夫のむらだと、見た。

四十五年。

夫に、言った。

あなたの機嫌、朝の私で、決まってたのね。

夫は、新聞から、顔を、上げた。

夫は、言った。

そうだよ。

こちらは、聞いた。

知ってたの。

夫は、言った。

知ってた。

お前が、おはようを言わない日は、俺も、言えない。

こちらは、言った。

言ってよ。

夫は、言った。

言えないんだ。

塗られてない紙に、光を当てても、出ない。

こちらは、黙った。

夫は、言った。

俺の機嫌だと、思ってただろう。

こちらは、言った。

思ってた。

夫は、言った。

俺は、ずっと、同じだ。

勤めてたときも、そうだ。

お前が、おはようを言わない朝は、会社でも、黙ってた。

帰ってきて、お前は、今日は淡いって、顔をした。

朝に、決まってたんだ。

お前の朝で、濃くも、淡くも、なる。

それだけの、人間だ。

こちらは、聞いた。

四十五年、どうして、言わなかったの。

夫は、言った。

言ったら、お前が、自分のせいに、する。

俺の性質に、しておいたほうが、いい。

こちらは、黙った。

こちらの刷毛を、夫が、隠していた。

第五章 今朝

朝、起きた。

台所に、立った。

味噌汁を、作った。

熱くした。

夫が、来た。

こちらは、言った。

おはよう。

夫は、言った。

おはよう。

夫は、味噌汁を、飲んだ。

熱いな、と言った。

こちらは、すぐ、答えた。

熱くした。

夫は、笑った。

濃い日に、なった。

こちらは、それを、見ていた。

塗ったのは、こちらだ。

塗ろうと、思って、塗った。

四十五年で、初めてだ。

今までは、手が、塗っていた。

厚かったり、薄かったり。

こちらの機嫌の、まま。

それを、夫のむらだと、思って、天気のように、見ていた。

天気では、なかった。

こちらの刷毛だった。

夫は、言った。

毎日、熱いのか。

こちらは、言った。

分からない。

私にも、むらが、ある。

夫は、言った。

あるだろうな。

こちらは、言った。

でも、私のむらだって、知ってる。

あなたのじゃない。

夫は、言った。

それで、いい。

昼に、娘から、電話が、来た。

お父さん、今日、どっち。

こちらは、言った。

濃い。

娘は、言った。

よかった。

こちらは、言った。

私が、塗った。

娘は、聞いた。

何を。

こちらは、言った。

お父さんのむらは、お父さんのじゃ、なかった。

私の朝だった。

娘は、少し、黙った。

娘は、言った。

じゃ、私の朝も、誰かの紙に、塗ってるのかな。

こちらは、言った。

塗ってる。

みんな、塗ってる。

塗ってるのに、光のせいに、してる。

エピローグ

朝、台所に、立つ。

味噌汁を、作る。

厚く塗るか、薄く塗るか。

こちらの手だ。

夫は、同じ光だ。

四十五年、同じだった。

むらは、夫ではなかった。

こちらが、朝に、塗っていた厚みだった。

塗ろうと思って、塗ったのではない。

手が、塗っていた。

こちらの機嫌の、まま。

それを、夫のむらだと、思っていた。

天気だと、思っていた。

天気なら、どうにも、できない。

刷毛なら、こちらの手にある。

毎日、厚くは、塗れない。

こちらにも、薄い朝が、ある。

薄く塗った朝は、夫が、淡く出る。

それを、夫のせいに、しない。

私の刷毛だと、知っている。

知って、そばにいる。

夫は、四十五年、知って、黙っていた。

それも、厚みだ。

濃い日は、いっしょに、笑う。

淡い日は、明日、厚く塗る。

光は、同じだ。

夫は、同じだ。

違うのは、こちらの朝だ。

ソウルミッション358

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