渡さなかった父
何も刷っていないところが、白くなかったこと

朗読で聴く
第一章 切らなかった原紙
七十六になった。
アメリカの、小さな町に、住んでいる。
教会の、事務所で、四十年、働いた。
週報を、刷る仕事だ。
謄写版だった。
原紙を切って、ローラーで、刷る。
息子が、一人いる。
四十八だ。
こちらは、息子に、何も、教えなかった。
教えないと、決めていた。
こちらの父が、教える人だった。
全部、教えた。
箸の持ち方から、口の利き方まで。
教えられて、こちらは、父が、嫌いになった。
だから、息子には、教えなかった。
何も、言わなかった。
褒めも、叱りも、しなかった。
息子は、白い紙のまま、育てた。
そう、思っていた。
原紙を、一つも、切らなかった。
息子の紙に、こちらの字は、一つも、無い。
息子が、自分で、書けばいい。
そう、思って、四十八年、黙っていた。
一つだけ、教えたことが、ある。
ロープの、結び方だ。
息子が、十のとき、夏じゅう、教えた。
舟を、つなぐ結びだ。
それだけは、教えた。
一つだけ、原紙を、切った。
あとは、白い。
そう、思っていた。
息子は、十八で、家を出た。
それから、三十年、年に一度、来る。
来ても、話すことは、少ない。
こちらが、話さないからだ。
第二章 息子が来た日
息子が、来た。
孫を、連れて、来た。
孫は、十だ。
三人で、台所に、座った。
息子が、コーヒーを、飲んだ。
カップを、置いた。
置いて、少し、ずらして、もう一度、置いた。
こちらは、それを、見た。
こちらも、そうする。
カップを、二度、置く。
一度で、置けない。
置いてから、少し、ずらす。
誰にも、教わっていない。
自分の癖だ。
息子が、同じことを、した。
息子は、立ち上がるとき、机を、指で、二度、叩いた。
こちらも、そうする。
立つ前に、二度、叩く。
息子は、玄関で、靴を、揃えた。
自分のと、孫のを、並べた。
こちらも、揃える。
誰にも、言われたことは、無い。
息子にも、言っていない。
こちらは、息子を、見ていた。
息子の中に、こちらが、いた。
教えていないところに、いた。
夜、息子が、戸締まりを、した。
鍵を、かけて、一度、引いて、確かめた。
もう一度、引いた。
二度、引く。
こちらも、そうする。
四十年、教会の戸で、そうした。
三十年、息子を、見ていなかった。
見なかったから、白いと、思っていた。
第三章 孫
孫が、コーヒーではなく、ジュースを、飲んだ。
コップを、置いた。
置いて、ずらして、もう一度、置いた。
こちらは、息子を、見た。
息子は、言った。
見た。
こちらは、言った。
見た。
息子は、言った。
俺も、やる。
こちらは、言った。
俺も、やる。
息子は、言った。
父さん、教えてないよね。
こちらは、言った。
教えてない。
息子は、言った。
俺も、あいつに、教えてない。
二人で、孫を、見た。
孫は、コップを、ずらして、置き直した。
孫は、聞いた。
何、見てるの。
息子は、言った。
コップ。
孫は、コップを、見た。
何も、分からない顔を、した。
こちらも、十のときは、分からなかったと、思う。
息子は、言った。
父さん、俺に、何も、教えなかったよね。
こちらは、言った。
教えなかった。
息子は、言った。
知ってる。
わざとでしょう。
こちらは、言った。
わざとだ。
息子は、言った。
でも、全部、ある。
カップも、机も、靴も。
こちらは、聞いた。
どこで、覚えた。
息子は、言った。
覚えてない。
家に、いたから。
父さんが、家に、いたから。
第四章 ローラー
夜、一人で、考えた。
こちらは、原紙を、切らなかった。
息子の紙に、字を、刷っていない。
それは、本当だ。
教えなかった。
褒めなかった。
叱らなかった。
白い紙だと、思っていた。
こちらの父は、原紙を、切る人だった。
切って、刷って、こちらの紙を、字で、埋めた。
その字が、嫌いだった。
だから、切らなかった。
切らなければ、白いと、思った。
ローラーのことを、忘れていた。
四十年、毎日、見ていたのに。
でも、ローラーは、とおっていた。
同じ家に、いた。
同じ台所で、コーヒーを、飲んだ。
息子の前で、カップを、二度、置いた。
息子の前で、机を、二度、叩いた。
玄関で、靴を、揃えた。
教えようと、思って、したのでは、ない。
癖だ。
癖が、息子の前を、毎日、通った。
通ったところが、染まった。
週報を、刷るとき、原紙を切っていないところも、ローラーは、通る。
通ると、紙は、薄く、よごれる。
真っ白では、なくなる。
四十年、それを、見ていた。
見ていて、息子の紙は、白いと、思っていた。
白い紙など、無い。
ローラーが、通れば、染まる。
同じ家に、十八年、いた。
十八年、ローラーが、通った。
こちらは、思った。
教えたことは、一つだ。
ロープの結びだ。
あれは、どうなった。
第五章 乗らなかったところ
朝、息子に、聞いた。
ロープ、結べるか。
舟の、あれだ。
息子は、少し、笑った。
息子は、言った。
結べない。
こちらは、聞いた。
夏じゅう、教えた。
息子は、言った。
覚えてる。
教えられたのは、覚えてる。
結び方は、覚えてない。
こちらは、黙った。
息子は、言った。
今は、金具で、留める。
結ばなくて、いい。
こちらは、言った。
そうか。
一つだけ、原紙を、切った。
一つだけ、刷った。
そこだけ、乗らなかった。
薄い。
教えたところが、薄くて、教えなかったところが、染まっている。
反対だと、思っていた。
刷ったところが、濃くて、刷っていないところが、白い。
そう、思っていた。
違った。
息子は、言った。
父さん、白い紙で、育てたつもりだったでしょう。
こちらは、言った。
つもりだった。
息子は、言った。
白くないよ。
こちらは、言った。
白くなかった。
息子は、言った。
嫌じゃ、ないよ。
カップも、机も、靴も。
嫌じゃ、ない。
こちらは、言った。
そうか。
息子は、言った。
あいつにも、ついてる。
俺は、教えてないのに。
こちらは、孫を、見た。
孫は、玄関で、靴を、揃えていた。
三人の靴を、並べていた。
息子は、言った。
あいつも、白い紙だと、思ってた。
こちらは、言った。
白くない。
息子は、言った。
白くない。
エピローグ
朝、コーヒーを、飲む。
カップを、置く。
ずらして、もう一度、置く。
誰にも、教わっていない。
誰にも、教えていない。
息子が、する。
孫が、する。
原紙を、切らなかった。
息子の紙は、白いと、思っていた。
白かったのは、こちらの目だ。
息子には、何も無いと、思っていた目だ。
紙は、染まっていた。
同じ家に、いれば、染まる。
教えなくても、通る。
通るのを、止めることは、できない。
止めなくて、いい。
通ったところが、色になる。
教えたところは、一つだけ、薄い。
ロープの結びだ。
それだけ、乗らなかった。
あとは、全部、乗っていた。
乗せたつもりの無いものが、全部だ。
こちらの父も、そうだったのかと、思う。
教えられたことは、嫌いだった。
教えられていないところに、父が、いるのかもしれない。
カップを、二度、置く。
父も、そうしていたか。
覚えていない。
覚えていないところに、いるのだと、思う。
あなたの魂のテーマに気づく場所