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柱の黒

何も刷っていないところが、白くなかったこと

柱の黒

朗読で聴く

第一章 何もしなかった人

七十になった。

六十で、会社を、辞めた。

三十八年、いた。

朝、出て、夜、帰った。

それだけの、三十八年だった。

家のことは、何も、しなかった。

飯は、妻が、作った。

子どもは、妻が、育てた。

親の葬式も、妻が、やった。

こちらは、朝、出て、夜、帰った。

辞めてから、十年、家にいる。

十年、家にいて、分かった。

この家に、こちらの色が、無い。

台所の物の、置き場所を、知らない。

押し入れの、どこに何があるか、知らない。

三十八年、住んだ家だ。

いたのに、何も、刷っていない。

妻が、刷った家だ。

娘にも、言われたことが、ある。

お父さんは、家に、いなかった。

こちらは、言った。

いなかった。

娘は、言った。

いたのに、いなかった。

こちらは、それを、そのとおりだと、思った。

いなかった人は、跡を、残さない。

こちらは、白い紙のまま、三十八年、いた。

そう、思っていた。

妻に、言った。

俺は、この家に、何も、しなかった。

妻は、言った。

そう、思ってるでしょう。

こちらは、言った。

思ってる。

妻は、言った。

来て。

第二章 柱

妻は、玄関に、行った。

玄関の、上がり口の、柱だ。

妻は、柱を、指した。

柱の、こちらの肩の高さに、黒いところが、あった。

手の形では、ない。

丸く、黒ずんでいる。

ほかは、木の色だ。

そこだけ、黒い。

妻は、言った。

これ、何だと思う。

こちらは、言った。

汚れだろう。

妻は、言った。

あなたの手。

こちらは、柱を、見た。

妻は、言った。

靴を履くとき、ここに、手をつくでしょう。

こちらは、考えた。

つく。

毎朝、靴を履くとき、右手を、柱につく。

つこうと、思って、ついたことは、無い。

手が、そこに、行く。

それだけだ。

妻は、言った。

三十八年、毎朝。

休みの日も。

こちらは、言った。

毎朝。

妻は、言った。

私、拭いても、取れないの。

木に、入ってる。

私のは、台所。

流しのへりが、白く、すり減ってる。

あなたのは、ここ。

こちらは、柱に、手を、当てた。

黒いところに、手が、ぴったり、合った。

三十八年の、手の跡だった。

何も、しなかった、と、思っていた。

毎朝、ここに、手を、ついていた。

刷ったのでは、ない。

通っただけだ。

通っただけで、柱が、黒くなっていた。

第三章 台所

妻は、台所に、行った。

妻は、言った。

ここは、あなたの色が、薄い。

こちらは、言った。

入ったことが、無い。

妻は、言った。

無い。

一度も。

こちらは、言った。

白いだろう。

妻は、言った。

白くない。

妻は、台所の、戸口を、指した。

敷居だ。

敷居の、真ん中が、少し、へこんでいた。

妻は、言った。

毎晩、ここに、立ったでしょう。

こちらは、考えた。

立った。

帰って、着替えて、台所の戸口に、立つ。

飯、と言う。

それから、居間に、戻る。

中には、入らない。

戸口までだ。

妻は、言った。

三十八年、毎晩。

敷居が、へこんだ。

こちらは、敷居を、見た。

真ん中だけ、木が、減っていた。

妻は、言った。

台所は、あなたの色が、薄い。

でも、白くは、ない。

戸口までは、来てた。

こちらは、黙った。

白いと、思っていた。

入らなかった場所は、白いと。

薄いだけだった。

薄いのは、白では、ない。

戸口に、毎晩、立っていただけの、色が、ある。

妻は、言った。

この家で、あなたが、本当に、来なかったところは、無いの。

薄いところは、ある。

でも、白いところは、無い。

第四章 拭かなかった理由

夜、妻に、聞いた。

柱の黒いの、いつから、気づいてた。

妻は、言った。

二十年くらい前。

こちらは、聞いた。

どうして、言わなかった。

妻は、言った。

言うことじゃ、ないでしょう。

あなたが、毎朝、手をついてる、なんて。

こちらは、言った。

拭かなかったのは。

妻は、言った。

拭いたわよ。

取れなかった。

それで、やめた。

こちらは、言った。

取れなくて、よかったのか。

妻は、少し、考えた。

妻は、言った。

取れなくて、よかった。

こちらは、聞いた。

どうして。

妻は、言った。

あなたが、この家に、いた跡が、それしか、無いから。

こちらは、黙った。

妻は、言った。

あなたは、何も、しなかった。

本当に、何も、しなかった。

でも、いた。

毎朝、出て、毎晩、帰って、いた。

いた人は、跡が、つく。

つけようと、思わなくても、つく。

こちらは、言った。

ローラーだな。

妻は、聞いた。

何。

こちらは、言った。

昔、会社に、謄写版が、あった。

原紙を切って、ローラーで、刷る。

原紙を、切ってないところにも、ローラーは、通る。

通ると、紙が、薄く、よごれる。

刷ってないのに、白くない。

妻は、言った。

それね。

こちらは、言った。

俺は、原紙を、一つも、切らなかった。

ローラーだけ、とおってた。

妻は、言った。

三十八年、毎日、とおってた。

第五章 今日の手

朝、靴を、履いた。

右手が、柱に、行った。

黒いところに、ぴったり、合った。

こちらは、手を、見た。

この手が、三十八年、ここを、染めた。

染めようと、思ったことは、一度も、無い。

手が、そこに、行っただけだ。

それでも、柱は、覚えていた。

こちらは、思った。

何もしなかった三十八年は、白い紙だと、思っていた。

妻が、刷った家に、こちらの色は、無いと。

違った。

原紙は、切らなかった。

それは、本当だ。

台所の物の、置き場所は、今も、知らない。

でも、ローラーは、とおっていた。

毎朝の手と、毎晩の足が、とおっていた。

通ったところが、黒くなり、へこんだ。

何もしなかったところが、白く、なかった。

妻が、後ろから、言った。

今日も、ついたね。

こちらは、言った。

ついた。

妻は、言った。

娘に、見せたら。

こちらは、聞いた。

柱を。

妻は、言った。

いたのに、いなかった、って、言った子だから。

いた跡を、見せたら。

こちらは、言った。

見せる。

娘は、見て、何と、言うだろう。

いたのに、いなかった。

いなかったのに、いた。

どちらも、本当だ。

妻は、言った。

また、少し、黒くなる。

こちらは、言った。

なる。

こちらは、靴を、履いて、出た。

散歩だ。

帰ってきて、また、柱に、手をつく。

これからも、つく。

つこうと、思って、つくのでは、ない。

手が、行く。

それで、いい。

エピローグ

朝、靴を履く。

右手が、柱に、行く。

黒いところが、ある。

三十八年の、手の跡だ。

何もしなかった、と、思っていた。

原紙は、切らなかった。

台所には、入らなかった。

それは、本当だ。

でも、白く、なかった。

紙は、原紙を切らなくても、染まる。

ローラーが、通るからだ。

通ったところに、色が、つく。

濃いところと、薄いところが、できる。

柱は、濃い。

敷居は、薄い。

どちらも、白では、ない。

白い紙は、この家に、一枚も、無い。

妻は、拭いても、取れなかったと、言った。

取れなくて、よかった、と、言った。

こちらも、そう、思う。

今日も、手をつく。

柱は、また、少し、黒くなる。

娘が来たら、黒いところに、手を、当てて、見せる。

それだけの、家だ。

それだけで、白くない。

ソウルミッション358

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