焼けた畳
何も刷っていないところが、白くなかったこと

朗読で聴く
第一章 白い二十年
七十になった。
夫は、七十四だ。
息子が、一人いる。
四十二だ。
息子は、二十二のとき、家を出た。
夫と、言い合って、出た。
何を言い合ったかは、もう、書かない。
小さなことだった。
小さなことで、二十年、帰らなかった。
こちらと夫は、息子の話を、しなかった。
夫が、しなかった。
こちらも、しなかった。
息子の部屋は、そのままにした。
机と、本棚と、布団だ。
二十年、誰も、使わなかった。
こちらは、その二十年を、白い紙だと、思っていた。
何も、刷っていない紙だ。
息子のことを、言わない。
息子の部屋に、何も、置かない。
息子のことで、何も、しない。
白いまま、二十年、置いておいた。
置いておけば、白いままだと、思っていた。
そう、思っていた。
白い紙は、いつでも、刷れる。
帰ってきたら、そのとき、刷ればいい。
そう、思って、白いまま、持っていた。
第二章 帰った日
春に、息子が、帰ってきた。
夫が、入院したからだ。
大きな病気では、ない。
それでも、息子は、来た。
二十年ぶりに、玄関に、立った。
こちらは、言った。
おかえり。
息子は、言った。
ただいま。
それだけだった。
息子は、家の中を、歩いた。
台所。居間。廊下。
息子は、言った。
何も、変わってない。
こちらは、言った。
変えてない。
息子は、言った。
でも、古くなった。
こちらは、それを、聞いて、黙った。
変えていないのに、古くなる。
変えないことは、止めておくことだと、思っていた。
止まっては、いなかった。
そのことを、こちらは、考えたことが、無かった。
息子は、自分の部屋の、戸を、開けた。
机と、本棚と、布団だ。
二十年、そのままだ。
息子は、中に、入った。
しばらく、立っていた。
それから、しゃがんだ。
畳を、見ていた。
息子は、言った。
ここだけ、焼けてる。
第三章 畳
窓の下の、畳だった。
窓から、一枚ぶんだけ、色が、違う。
薄い茶色だ。
ほかは、まだ、青い。
息子は、言った。
日が、当たってた。
こちらは、見た。
本当だった。
窓の下だけ、日に、焼けていた。
息子は、言った。
カーテン、開けてたの。
こちらは、考えた。
開けていた。
毎朝、家中のカーテンを、開ける。
台所。居間。寝室。
息子の部屋も、開けていた。
息子の部屋だけ、閉めておく、ということを、しなかった。
開けようと、思って、開けたのでは、ない。
家中を、開ける手が、そこも、開けた。
それだけだった。
二十年、毎朝だ。
日が、入った。
畳が、焼けた。
こちらは、この部屋で、何も、していない。
何も、刷っていない。
それでも、白く、なかった。
息子は、畳を、なでた。
息子は、言った。
二十年、日が、当たってたんだ。
こちらは、言った。
当たってた。
息子は、言った。
俺、この家、白いと、思ってた。
こちらは、聞いた。
白い。
息子は、言った。
何も、無いと、思ってた。
俺のことは、無いことに、なってると、思ってた。
こちらは、言った。
私も、白いと、思ってた。
第四章 廊下
晩ごはんに、息子の茶碗を、出した。
戸棚の、いちばん奥に、あった。
二十年、誰も、手を、つけなかった。
息子は、茶碗を、持って、言った。
これは、変わってない。
こちらは、見た。
変わっていなかった。
でも、白くは、なかった。
奥に置いたまま、ほこりを、かぶって、少し、黄ばんでいた。
日も、当たらない。
手も、届かない。
それでも、二十年は、通る。
通ったところは、薄くても、色になる。
息子は、茶碗を、洗って、使った。
夜、息子が、廊下で、立ち止まった。
息子の部屋の、戸の前だ。
息子は、足元を、見ていた。
息子は、言った。
ここ、床の色が、違う。
こちらは、見た。
息子の部屋の前だけ、床の板が、少し、黒い。
擦れて、黒くなった色だ。
ほかの廊下は、そうでは、ない。
息子は、言った。
誰か、ここに、立ってた。
こちらは、考えた。
夫だ。
夫は、夜中に、一度、起きる。
トイレに、行く。
廊下を、とおる。
息子の部屋の、戸の前を、とおる。
そこで、止まっていたのか。
こちらは、知らなかった。
夫が、そこで止まるのを、見たことは、無い。
夫も、知らないと、思う。
止まろうと、思って、止まっていたのでは、ない。
夜中の足が、そこで、止まった。
それだけだ。
二十年、毎晩だ。
床が、黒くなった。
夫は、息子の話を、しなかった。
息子の部屋に、入らなかった。
何も、刷っていない。
それでも、戸の前の床が、白く、なかった。
息子は、しゃがんで、床を、見ていた。
息子は、言った。
父さん、か。
こちらは、言った。
たぶん。
息子は、言った。
言わなかったのに。
こちらは、言った。
言わなかった。
でも、通った。
毎晩、通った。
息子は、黙った。
こちらは、言った。
言わないのと、無いのは、違うのね。
私、同じだと、思ってた。
第五章 染まった紙
次の日、病院に、行った。
息子と、二人で、行った。
夫は、息子を、見た。
息子は、夫を、見た。
二人とも、しばらく、黙っていた。
夫が、言った。
来たか。
息子が、言った。
来た。
それだけだった。
二十年ぶりの、言葉が、それだけだった。
夫は、天井を、見た。
息子は、窓を、見た。
こちらは、白い紙に、初めて、刷ったのだと、思った。
小さな、刷りだ。
来たか。来た。
それだけだ。
でも、白い紙に、刷ったのでは、なかった。
二十年、白い紙を、守ってきて、そこに、初めて、刷る。
そう、思っていた。
違った。
紙は、二十年、染まっていた。
畳が、焼けていた。
床が、黒くなっていた。
毎朝の手と、毎晩の足が、とおっていた。
誰も、刷っていない。
誰も、そのつもりが、無かった。
それでも、日は、入る。
足は、とおる。
紙は、白いままでは、いない。
二十年、白い紙を、持っていたと、思っていた。
持っていたのは、染まった紙だった。
帰る道で、息子が、言った。
畳、替える。
こちらは、言った。
替えない。
息子は、聞いた。
どうして。
こちらは、言った。
焼けたままで、いい。
二十年、日が、当たってた。
それが、あの部屋の、色だから。
息子は、うなずいた。
うなずいて、言った。
白いより、いい。
こちらは、言った。
白いより、いい。
エピローグ
朝、カーテンを、開ける。
家中を、開ける。
息子の部屋も、開ける。
二十年、そうしてきた。
開けようと、思って、開けたのでは、ない。
手が、開けた。
日が、入った。
畳が、焼けた。
白い二十年だと、思っていた。
何も、刷っていない。
それは、本当だ。
でも、白く、なかった。
紙は、置いておくだけで、染まる。
日が、通る。
足が、通る。
刷っていなくても、通る。
通ったところが、色になる。
言わなかった。
でも、無かったのでは、ない。
夫の足は、毎晩、あの戸の前で、止まっていた。
こちらの手は、毎朝、あの窓を、開けていた。
二人とも、知らなかった。
紙だけが、知っていた。
紙は、通ったものを、覚えている。
畳は、替えない。
焼けたままに、しておく。
あの色が、二十年の色だ。
白ではない。
薄い、茶色だ。
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