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夫の黒

暗さが、線を重ねた数だったこと

夫の黒

朗読で聴く

第一章 言わない人

六十八になった。

アメリカの、小さな町に、住んでいる。

夫は、二年前に、七十で、死んだ。

夫は、銅版画を、彫る人だった。

細い線で、部屋や、道を、彫った。

四十年、いっしょに、いた。

夫には、言わないことが、一つ、あった。

若いころ、夫は、船に、乗っていた。

二十二から、二十六まで。

その四年のことを、夫は、言わなかった。

聞くと、黙った。

怒るのでは、なかった。

黙るだけだった。

黙って、彫る部屋に、行った。

こちらは、思っていた。

夫の中に、黒い塊が、ある。

船の四年だ。

塊は、夫が、抱えている。

抱えたまま、四十年、彫っていた。

こちらは、それに、触らなかった。

触ると、夫が、崩れると、思った。

塊の周りを、歩いて、暮らした。

歩く道は、決まっていた。

船の話に、近づかない道だ。

娘が、一人いる。

三十九だ。

娘にも、言った。

お父さんには、言わないことが、ある。

聞かないで、いてあげて。

娘は、聞かなかった。

聞かないまま、大きくなって、家を出た。

四十年、家の中に、黒い塊が、一つ、あった。

夫のものだと、思っていた。

第二章 版

夫が、死んだ。

彫る部屋を、片付けた。

版が、二百枚、あった。

銅の、板だ。

一枚ずつ、見た。

三日、かかった。

部屋。道。窓。皿。

全部、細い線だ。

暗いところは、線が、重なっている。

夫が、生きているとき、言っていた。

黒く塗ったところは、一つも、無い。

暗いところは、線を、重ねただけだ。

重ねた数だけ、暗い。

一本ずつは、同じ線だ。

こちらは、それを、聞いていた。

聞いていて、夫の黒い塊のことは、別だと、思っていた。

版の中に、船が、あった。

一枚だけだ。

船の、甲板だ。

誰も、いない。

海も、無い。

板と、手すりだけだ。

甲板の、隅が、暗い。

こちらは、近くで、見た。

線だった。

縦、横、斜め、もう一つ、斜め。

四本、重なっていた。

それで、暗く、見えていた。

一本ずつは、甲板の、明るいところの線と、同じだった。

同じ刀で、同じ深さだ。

夫は、船の四年を、線で、彫っていた。

黒く塗って、いなかった。

こちらは、版を、持ったまま、座った。

第三章 日付

版の裏に、日付が、あった。

夫は、彫った日を、裏に、書く人だった。

船の版の裏には、日付が、四つ、あった。

十年、おきだった。

一枚の版を、十年おきに、四回、彫っていた。

三十のとき。

四十のとき。

五十のとき。

六十のとき。

四回、彫っていた。

一回に、一つの向きの線だ。

三十のとき、縦。

四十のとき、横。

五十のとき、斜め。

六十のとき、もう一つの、斜め。

十年に、一度、線を、一つ、重ねていた。

黒い塊を、抱えていたのでは、なかった。

十年に、一度、一本の線を、彫っていた。

細い線だ。

それを、四回。

四十年で、四本。

四本重なって、暗く、見えた。

こちらは、それを、塊だと、思っていた。

夫の中の、黒い塊だ。

塊では、なかった。

四本の線だった。

しかも、十年に、一本だ。

夫は、言わなかった。

言わなかったが、彫っていた。

彫っているあいだ、こちらは、隣の部屋に、いた。

刀の音を、聞いていた。

何を彫っているかは、聞かなかった。

少しずつ、細く。

こちらは、それを、知らなかった。

彫る部屋に、入らなかったからだ。

塊に、触らないようにして、部屋に、入らなかった。

第四章 反対

こちらは、思っていた。

黒い塊を、持っているのは、夫だ。

こちらは、その周りを、歩いていた。

反対だった。

夫は、塊を、持っていなかった。

線を、四本、持っていた。

十年に、一本ずつ、彫っていた。

塊を、持っていたのは、こちらだ。

夫が、言わない。

言わないので、こちらが、黒く、塗った。

船の四年を、一つの黒に、塗った。

塗ったのは、こちらだ。

夫は、塗らない人だった。

線を、重ねる人だった。

塗った黒と、重ねた黒は、遠くから見ると、同じだ。

近くで見ると、違う。

こちらは、遠くから、見ていた。

こちらは、彫らない。

彫らないので、塗った。

塗った黒は、近くで見ても、黒だ。

四十年、近くで見ても、黒かった。

こちらの中で、黒かった。

夫の中では、四本の線だった。

娘に、言った。

お父さんに、聞かないでって、言ったよね。

娘は、言った。

言った。

こちらは、言った。

あれ、間違ってた。

娘は、聞いた。

どうして。

こちらは、言った。

お父さんは、塊を、持ってなかった。

線を、四本、彫ってた。

塊を、持ってたのは、私。

私が、黒く、塗ってた。

娘は、黙った。

こちらは、言った。

あなたにも、塗らせた。

聞かないで、と、言ったから。

娘は、言った。

聞いてたら、どうなってた。

こちらは、言った。

分からない。

でも、線だって、分かった。

線なら、一本ずつ、見られた。

塊は、見られない。

見ないで、周りを、歩くしか、無い。

第五章 四本

船の版を、刷った。

夫の道具で、刷った。

初めて、刷った。

甲板の隅が、暗い。

近くで、見る。

四本の線だ。

三十の線。四十の線。五十の線。六十の線。

一本ずつ、見る。

どれも、細い。

どれも、同じ細さだ。

三十の線が、いちばん、細いわけでは、ない。

六十の線が、太いわけでも、ない。

夫は、十年に、一度、この隅に、来ていた。

来て、一本、彫って、帰った。

それだけだった。

抱えていたのでは、ない。

かよっていた。

十年に、一度。

こちらは、それを、塊だと、思っていた。

塊は、動かない。

線は、増える。

増えるだけだ。

増えても、一本ずつは、細い。

夫は、七十で、死んだ。

七十の線は、無い。

彫る前に、死んだ。

四本で、終わった。

終わったのを、こちらが、見つけた。

四本で、暗く、見えた。

五本なら、もっと、暗かった。

それでも、線だ。

塗ったのではない。

娘が、来た。

刷った紙を、見せた。

娘は、隅を、見た。

近くで、見た。

娘は、言った。

線だ。

こちらは、言った。

線。

娘は、言った。

四本。

こちらは、言った。

十年に、一本。

娘は、言った。

お父さん、言わなかったけど、彫ってた。

こちらは、言った。

彫ってた。

私が、見なかっただけ。

娘は、紙を、持って、帰った。

持って帰って、壁に、掛けると、言った。

エピローグ

朝、彫る部屋に、入る。

夫が、いたときは、入らなかった。

黒い塊が、あると、思っていた。

無かった。

四本の線が、あった。

十年に、一本ずつ、彫った線だ。

塊を、持っていたのは、こちらだ。

夫が、言わない四年を、こちらが、黒く、塗った。

塗った黒は、近くで見ても、黒だ。

四十年、黒かった。

夫の版は、近くで見れば、線だ。

線は、一本ずつ、見られる。

こちらは、見なかった。

部屋に、入らなかったからだ。

入っていれば、三十の線を、見た。

四十の線を、見た。

一本ずつ、見た。

塊には、ならなかった。

夫は、塗らない人だった。

重ねた数だけ、暗くなる。

それだけの人だった。

こちらは、塗る人だった。

これから、塗らない。

版を、刷る。

夫の刀は、使わない。

刷るだけだ。

隅を、近くで、見る。

四本だ。

細い。

ソウルミッション358

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