十冊の手帳
暗さが、線を重ねた数だったこと

朗読で聴く
第一章 黒い十年
六十四になった。
母は、去年の春に、九十一で、死んだ。
母の、最後の十年は、暗かった。
八十を過ぎて、足が、弱った。
外に、出なくなった。
人と、会わなくなった。
電話に、出ないことが、多くなった。
こちらは、月に一度、行った。
電車で、二時間だ。
行くと、母は、横になっていた。
起きて、少し、話した。
話すことは、少なかった。
膝が、痛い。
眠れない。
こちらは、そう、と言った。
それだけだった。
こちらは、帰りの電車で、いつも、同じことを、思った。
母の十年は、黒い。
一つの、黒い塊だ。
見ないように、した。
見ると、こちらまで、黒くなる気が、した。
こちらにも、家が、あった。
夫と、娘と、仕事が、あった。
黒くなるわけには、いかなかった。
月に一度、行って、黒い塊に、手を、触れて、帰った。
十年、そうした。
母が、死んだ。
塊が、終わったと、思った。
終わって、少し、楽になった。
楽になったことを、誰にも、言わなかった。
第二章 手帳
母の家を、片付けた。
箪笥の、引き出しに、手帳が、あった。
十冊、あった。
一年、一冊だ。
こちらは、母が、書くのを、知らなかった。
最後の、十年分だ。
開いた。
一日、いちぎょう。
小さな字で、書いてあった。
雨。膝が痛い。
晴れ。窓を開けた。
娘から電話。声が元気だった。
こちらは、それを、読んだ。
こちらの声のことが、書いてあった。
次の日も、いちぎょう。
その次も、いちぎょう。
三千六百五十行、あった。
こちらは、床に、座って、読んだ。
夕方まで、読んだ。
黒い塊では、なかった。
いちぎょうずつだった。
雨の日と、晴れの日が、あった。
膝が痛い日と、痛くない日が、あった。
電話が来た日と、来なかった日が、あった。
娘から電話なし。
そのぎょうが、多かった。
こちらは、数えた。
数えるのに、一晩、かかった。
一年に、四十回、あった。
十年で、四百回だ。
こちらは、月に一度しか、電話を、しなかった。
残りの、四十回は、母が、待っていたぎょうだ。
待っていて、書いて、次の日も、待っていた。
細い、いちぎょうだ。
いちぎょうは、どれも、同じ細さだった。
晴れのぎょうも、電話なしのぎょうも、同じ細さで、書いてあった。
第三章 版
若いころ、版画を、見た。
銅版の、エングレービングだ。
部屋が、彫ってある。
全部、細い線だ。
暗いところが、あった。
部屋の、隅だ。
黒く、見えた。
彫った人が、言った。
黒く塗ったところは、一つも、無い。
こちらは、聞いた。
ここは、黒いですよ。
彫った人は、言った。
近くで、見てごらん。
こちらは、近くで、見た。
線だった。
線が、縦と横に、重なっていた。
一本ずつは、明るいところの線と、同じ細さだった。
彫った人は、言った。
暗いところは、線を、重ねただけだ。
重ねた数だけ、暗い。
塗りつぶしは、しない。
したら、版画では、なくなる。
塗った黒は、近くで見ても、黒だ。
線の黒は、近くで見ると、線に、戻る。
こちらは、聞いた。
どれだけ、重ねるんですか。
彫った人は、言った。
四回まで。
四回重ねると、黒に、見える。
黒じゃない。
四本の、線だ。
四本とも、同じ刀で、彫る。
こちらは、そのとき、それを、面白いと、思った。
母の手帳を、読んで、思い出した。
母の十年は、黒く、見えた。
黒く塗ったのでは、なかった。
いちぎょうずつ、細い線だった。
重なったところが、暗く、見えた。
電話なし、のぎょうが、重なったところだ。
一本ずつは、細い。
晴れのぎょうと、同じ細さだ。
第四章 娘に
娘に、手帳を、見せた。
娘は、三十六だ。
娘は、言った。
おばあちゃん、こんなに、書いてたんだ。
こちらは、言った。
一日、いちぎょう。
娘は、読んだ。
読んで、言った。
娘から電話なし、が、多い。
こちらは、言った。
多い。
娘は、言った。
お母さん、月に一度しか、してなかったの。
こちらは、言った。
してなかった。
娘は、黙った。
黙って、もう一冊、開いた。
こちらは、言った。
黒い塊だと、思ってたの。
娘は、聞いた。
何を。
こちらは、言った。
おばあちゃんの、十年。
黒くて、触ると、こっちまで、黒くなると、思ってた。
だから、月に一度に、してた。
娘は、言った。
塊じゃ、なかったの。
こちらは、言った。
いちぎょうずつだった。
雨の日と、晴れの日が、あった。
電話なしのぎょうが、重なったところが、黒く、見えてただけ。
娘は、言った。
じゃあ、電話を、してたら。
こちらは、言った。
線が、減った。
黒く見えるところが、薄くなった。
塊は、初めから、無かった。
娘は、言った。
遅い。
こちらは、言った。
遅い。
娘は、手帳を、閉じた。
閉じるとき、指で、表紙を、なでた。
閉じて、言った。
私、お母さんに、週に一度、電話する。
こちらは、言った。
しなくていい。
娘は、言った。
する。
線が、重なる前に。
第五章 同じ細さ
手帳を、家に、持ち帰った。
毎日、一年分の、いちぎょうを、読む。
今日の日付の、十年分だ。
十行、読む。
雨。晴れ。膝。電話なし。窓を開けた。
どれも、同じ細さだ。
母は、黒い十年を、送ったのではない。
いちぎょうずつ、書いていた。
書いている母は、黒くなかった。
黒く見えたのは、こちらの目だ。
こちらの目が、遠くから、見ていた。
遠くから見ると、重なった線は、黒に、見える。
近くで見ると、線だ。
線なら、一本ずつ、読める。
読めば、どの線が、こちらの線か、分かる。
こちらは、近くで、見なかった。
月に一度、遠くから、黒い塊を、見て、帰った。
二時間の電車の中で、黒だと、決めていた。
近くで見れば、線が、見えた。
電話なし、の線が、見えた。
見えたら、電話を、した。
しなかった。
黒いと、思ったからだ。
黒くなかった。
四本、重なっていただけだ。
四本のうちの、一本は、こちらが、引いた線だ。
電話を、しなかった線だ。
母が引いたのではない。
こちらが、引いた。
こちらが引いた線が、母の十年を、暗くしていた。
母の線では、なかった。
それを、母の黒だと、思っていた。
塗ったのは、こちらだ。
塗ったのでもない。
重ねた。
一本ずつ、細く。
エピローグ
朝、手帳を、開く。
今日の日付の、十行だ。
娘から電話。声が元気だった。
そのぎょうが、ある。
十年で、百二十回、ある。
こちらが、電話をした日だ。
その日のぎょうは、明るい。
明るいぎょうも、暗いぎょうも、同じ細さだ。
母の十年は、黒い塊では、なかった。
線を、重ねた数だった。
重ねた線の一本は、こちらの線だった。
黒く塗ったところは、一つも、無い。
彫った人が、そう言った。
母も、そうだった。
塗る人では、なかった。
一日いちぎょう、細く、書いていた。
こちらは、遠くから、黒だと、思っていた。
近くで見れば、線だった。
近くで、見なかった。
いま、近くで、見る。
十行ずつ。
娘が、電話を、くれる。
週に一度だ。
こちらの手帳にも、いちぎょう、書く。
娘から電話。
細い、いちぎょうだ。
重ねない。
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