あのこと
一つの色が、ほかの色を消していたこと

朗読で聴く
第一章 色の無い家
七十二になった。
父は、こちらが十二のとき、会社を、つぶした。
小さな、材木の、会社だった。
家を、売った。
町の外れの、借家に、移った。
母は、それから、言い続けた。
うちは、あのこと以来、色が、無い。
あのこと、というのが、会社のことだ。
母は、死ぬまで、そう言った。
八十八で、死んだ。
こちらも、そう思って、育った。
うちは、色の無い家だ。
あのことが、全部、持っていった。
持っていかれたものを、こちらは、数えなかった。
数えるまでもなく、全部だと、思った。
父は、黙って、働いた。
人の会社の、倉庫で、働いた。
六十で、死んだ。
こちらは、会社勤めを、した。
四十年、勤めた。
目立たないように、勤めた。
目立つと、あのことを、思い出されると、思った。
色の無い家の、子だからだ。
妻は、四十五年、いる。
子どもは、二人、家を出た。
こちらは、七十二まで、うちを、灰色だと、思っていた。
第二章 写真
母の家を、片付けた。
去年だ。
押し入れから、写真が、出た。
箱に、三つ。
こちらは、開けた。
あのことの、前の写真が、あった。
大きい家の、前で、家族が、立っている。
これは、覚えている。
色のあった、ころだ。
次の箱を、開けた。
あのことの、あとの写真だった。
借家の、前だ。
母が、笑っている。
父が、こちらの肩に、手を、置いている。
妹が、犬を、抱いている。
白い、小さな犬だ。
こちらは、それを、覚えていなかった。
犬を、飼っていたことを、覚えていなかった。
三つ目の箱も、あとの写真だった。
夕飯の、写真。
母が、歌っている写真。
父が、庭で、何かを、作っている写真。
こちらが、自転車に、乗っている写真。
乗れた日の、写真だ。
こちらは、写真を、床に、並べた。
あとの写真のほうが、多かった。
前の写真は、箱、一つだった。
あとの写真は、二箱だった。
二箱の、暮らしが、あった。
こちらは、それを、灰色だと、思っていた。
写真は、灰色では、なかった。
第三章 淡彩
若いころ、絵を、見た。
水彩の、淡彩だ。
薄い色の、部屋の中に、一つだけ、濃い色が、ある。
黒い、鞄だ。
こちらは、言った。
鞄しか、見えませんね。
描いた人は、言った。
そう、見える。
こちらは、聞いた。
周りは、何も、無いんですか。
描いた人は、言った。
ある。
薄い青と、薄い茶だ。
机も、窓も、湯のみも、ある。
鞄が、濃いので、見えない。
こちらは、聞いた。
鞄を、取ったら。
描いた人は、言った。
取ったら、全部、見える。
薄いが、全部、ある。
濃い一つが、周りを、消す。
消したのではない。
目が、濃いほうに、行く。
こちらは、そのとき、鞄を、見ていた。
鞄が、いちばん、大きいと、思った。
大きいのではなく、濃いのだった。
周りを、見なかった。
写真を、床に並べて、思い出した。
あのことは、黒い鞄だった。
濃い一つだった。
母の目は、あのことに、行った。
こちらの目も、あのことに、行った。
周りが、消えた。
消えたのではない。
薄かった。
薄い青と、薄い茶だった。
夕飯と、母の歌と、父の庭だった。
全部、あった。
二箱、あった。
母は、それを、色が無いと、言った。
濃い一つを、見ながら、言った。
六十年、言った。
こちらは、六十年、それを、聞いた。
第四章 妻
妻に、写真を、見せた。
妻は、言った。
いい写真。
こちらは、言った。
うちは、色が無いって、母が、言ってた。
妻は、言った。
知ってる。
あなたも、言ってた。
結婚したとき、最初に、言った。
こちらは、言った。
言ってた。
妻は、写真を、一枚、取った。
母が、歌っている写真だ。
妻は、言った。
これが、色が無いの。
こちらは、言った。
無いと、思ってた。
妻は、言った。
あなた、結婚したころ、言ってた。
うちは、大きな失敗が、あって、それから、何も無いって。
こちらは、言った。
言った。
妻は、言った。
何も無い家で、育った人が、こんなに、写真を、撮る。
こちらは、黙った。
妻は、言った。
失敗が、大きかったのよ。
大きいのを、見てたら、ほかが、見えない。
こちらは、言った。
母も、そうだった。
妻は、言った。
お母さんは、歌ってた。
歌いながら、色が無いって、言ってた。
こちらは、言った。
言ってた。
妻は、言った。
言ってたけど、歌ってた。
こちらは、その写真を、見た。
母は、口を、開けている。
目が、細い。
笑っている。
こちらは、この母を、覚えていない。
覚えていないのではなく、見ていなかった。
覚えているのは、色が無いと言う母だ。
濃い一つを、こちらも、見ていた。
薄い母を、見なかった。
第五章 二箱
写真を、二箱、こちらの家に、置いた。
前の箱は、母の家に、残した。
妹に、渡す。
こちらには、二つで、足りる。
妹は、六十八だ。
妹に、電話した。
犬を、飼ってたな。
妹は、言った。
飼ってた。
シロ。
こちらは、言った。
覚えてなかった。
妹は、言った。
兄さんは、あのことばかり、覚えてた。
こちらは、聞いた。
お前は。
妹は、言った。
私は、小さかったから。
あのことより、シロを、覚えてる。
こちらは、黙った。
妹は、言った。
うちは、色が無い、って、お母さんが、言うたびに、私、シロを、見てた。
こちらは、言った。
お前は、見てたのか。
妹は、言った。
見てた。
白かった。
こちらは、電話を、置いた。
妹は、薄い色を、見ていた。
濃い一つを、見なかった。
小さかったからだ。
濃い一つを見るには、それが、どれだけ大きいか、分かっていないと、ならない。
妹は、分かっていなかった。
分かっていなかったので、周りが、見えた。
こちらは、分かっていた。
十二だった。
分かっていたので、周りが、消えた。
六十年、消えたままだった。
二箱の写真を、見て、戻った。
戻ったのではない。
初めから、あった。
薄い青と、薄い茶で、あった。
母の歌と、父の庭と、シロだ。
こちらは、それを、七十二で、見た。
母は、見ないで、死んだ。
歌いながら、見ないで、死んだ。
歌っている写真が、ある。
母は、自分の歌を、見なかった。
こちらが、見る。
エピローグ
朝、写真を、一枚、見る。
母が、歌っている。
父が、庭にいる。
妹が、シロを、抱いている。
あのこと以来、色が無い、と、母は、言った。
六十年、聞いた。
濃い一つが、周りを、消していた。
消したのは、あのことでは、ない。
あのことを、見ていた目だ。
母の目と、こちらの目だ。
妹の目は、消さなかった。
小さかったので、濃い一つが、見えなかった。
見えなかったので、シロが、見えた。
周りは、薄い色で、二箱、あった。
無いと言いながら、母は、歌っていた。
父は、庭を、作っていた。
薄い色で、暮らしていた。
濃い一つを、見ながら、薄い色で、暮らしていた。
暮らしのほうが、多かった。
箱、二つと、一つだ。
こちらは、多いほうを、見なかった。
七十二で、見た。
母には、言えない。
妻には、言った。
妹にも、言った。
シロは、白かった。
薄い青の、家の中で、白かった。
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