薄い色
一つの色が、ほかの色を消していたこと

朗読で聴く
第一章 妹
六十三になった。
妹は、去年の秋に、五十八で、死んだ。
妹は、生まれたときから、心臓が、弱かった。
家の中は、妹の、色だった。
母は、妹を、見ていた。
父も、妹を、見ていた。
こちらは、姉だった。
五つ、上だ。
妹の薬を、取りに行った。
妹の分の、洗濯を、した。
妹が、学校を、休む日、こちらが、先生に、言いに行った。
妹の、好きな物を、こちらが、覚えていた。
こちらの好きな物は、誰も、聞かなかった。
聞かれないので、無いのだと、思った。
こちらは、それを、当たり前だと、思っていた。
妹が、色だった。
こちらは、色では、なかった。
母も、父も、色では、なかった。
家の中で、色は、一つだった。
一つあれば、足りると、思った。
こちらは、灰色で、いいと、思った。
灰色は、目立たないので、妹の邪魔に、ならない。
六十年、そう思って、生きた。
結婚しても、そうだった。
夫は、言った。
あなたは、自分のことを、言わない。
こちらは、言った。
言うことが、無い。
言うことが無いのは、色が、無いからだと、思っていた。
夫は、それ以上、聞かなかった。
聞かないで、四十年、いた。
第二章 絵
若いころ、絵を、見た。
水彩の、淡彩だ。
薄い色で、部屋が、描いてある。
その中に、一つだけ、濃い色が、あった。
赤い、椀だ。
こちらは、言った。
椀のほかは、灰色ですね。
描いた人は、言った。
灰色じゃない。
こちらは、聞いた。
違うんですか。
描いた人は、言った。
薄い青と、薄い茶だ。
灰色は、使ってない。
こちらは、もう一度、見た。
言われれば、青だった。
言われれば、茶だった。
描いた人は、言った。
濃い色が、一つあると、周りが、色の無いものに、見える。
見えるだけだ。
周りにも、色は、ある。
薄いだけだ。
こちらは、聞いた。
どうして、濃い色を、置くんですか。
描いた人は、言った。
置くと、絵になる。
置かないと、薄い色が、全部、見える。
見えるが、絵に、ならない。
こちらは、そのとき、赤い椀だけを、見ていた。
赤い椀が、妹に、見えた。
薄い青は、見なかった。
妹が死んで、思い出した。
思い出したのは、赤が、無くなったからだ。
第三章 日記
妹の家を、片付けた。
妹は、結婚していなかった。
日記が、あった。
三十冊、あった。
読むつもりは、なかった。
一冊、開いた。
こちらのことが、書いてあった。
姉が、薬を、取ってきてくれた。
姉の手が、冷たかった。
姉は、いつも、廊下を、静かに、歩く。
姉の、煮物の、味。
姉の、笑う声。
三十冊、読んだ。
三日、かかった。
こちらが、書いてあった。
母のことも、父のことも、書いてあった。
母の、髪の、束ね方。
父の、咳。
細かく、書いてあった。
妹は、家の中で、いちばん、見られていた。
見られていた人が、いちばん、見ていた。
こちらは、座り込んだ。
妹は、見ていた。
こちらを、見ていた。
薬を取りに行く、こちらの背中を、見ていた。
薄い青を、見ていた。
薄い茶を、見ていた。
妹の目には、家の中が、色で、いっぱいだった。
こちらの目には、妹だけが、色だった。
同じ家に、いた。
同じ家が、こちらには、灰色に、見えた。
妹には、薄い色に、見えていた。
濃いのは、妹だった。
濃い一つを、こちらは、見ていた。
見ていたので、ほかが、無色に、見えた。
無色では、なかった。
薄かった。
薄いものは、濃いものの隣で、消える。
消えるのではない。
消えて見える。
第四章 夫に
夫に、言った。
私は、色が、無いと、思ってた。
夫は、言った。
知ってる。
こちらは、言った。
妹の日記に、私が、書いてあった。
細かく。
夫は、言った。
どんな。
こちらは、言った。
手が、冷たいって。
廊下を、静かに、歩くって。
夫は、言った。
そうだよ。
こちらは、聞いた。
知ってたの。
夫は、言った。
四十年、いっしょに、いる。
こちらは、黙った。
夫は、言った。
あなたは、色が、無いんじゃない。
薄いだけだ。
薄いのを、無いと、思ってた。
こちらは、言った。
妹が、濃かったから。
夫は、言った。
濃いのが、いなくなって、見えた。
こちらは、言った。
六十年、かかった。
夫は、言った。
六十年、薄かった。
無かったんじゃ、ない。
こちらは、言った。
見えた。
夫は、言った。
妹さんは、生きてるときから、見てた。
あなたが、見てないところで。
こちらは、言った。
見てた。
私だけが、見てなかった。
夫は、言った。
濃いのを、見てたから。
こちらは、少し、泣いた。
泣いたのは、悲しいからでは、なかった。
六十年、無いと思っていたものが、あったからだ。
あって、妹が、見ていたからだ。
第五章 薄い青
妹の日記を、家に、持ち帰った。
毎日、一冊、読む。
姉が、来た。
姉は、今日、青い服だった。
二十年前の、春の日だ。
こちらは、その服を、覚えている。
薄い、青だ。
自分では、色だと、思っていなかった。
妹には、色だった。
濃い赤の隣で、薄い青は、無いように、見える。
見えるのは、赤を見ている目に、だけだ。
妹の目は、赤では、なかった。
妹は、自分の赤を、見なかった。
赤は、自分では、見えない。
見えるのは、周りの色だ。
周りの、薄い色を、見ていた。
こちらは、妹の赤を、見ていた。
見ていたので、自分の青を、見なかった。
母の茶も、父の茶も、見なかった。
母は、死ぬまで、自分を、灰色だと、思っていただろう。
父も、そうだろう。
二人とも、妹の赤を、見ていた。
家の中で、薄い色を見ていたのは、妹だけだった。
濃い一つが、周りを、消す。
消された周りは、消されたと、思っている。
消されていない。
薄いだけだ。
濃い一つが、いなくなると、薄い色が、見える。
見えるまで、六十年、かかった。
妹は、それを、三十冊に、書いておいた。
書いてなければ、こちらは、いまも、灰色だ。
灰色のまま、死んでいた。
娘に、言った。
娘は、三十五だ。
あなたの薄い色を、私は、見てるか。
娘は、言った。
何のこと。
こちらは、言った。
濃い色を、見てると、薄い色が、見えなくなる。
私は、そうだった。
娘は、言った。
私、濃い。
こちらは、言った。
薄い。
薄くて、青い。
娘は、笑った。
笑って、自分の袖を、見た。
エピローグ
朝、日記を、一冊、開く。
姉が、と、書いてある。
こちらのことだ。
薄い青だ。
六十年、灰色だと、思っていた。
濃い一つが、家に、あった。
濃い一つを、見ていた。
見ていたので、周りが、無色に、見えた。
無色では、なかった。
薄い青と、薄い茶だった。
濃い一つは、周りを、消していた。
消していたのではない。
こちらの目が、消していた。
妹の目は、消さなかった。
妹は、薄い色を、三十冊、書いた。
書いてあるので、見える。
濃い一つが、いなくなって、見える。
いなくなる前に、見たかった。
見て、妹に、言いたかった。
あなたの隣で、私も、色だった、と。
見なかったのは、こちらだ。
妹は、見ていた。
それで、いい。
薄い青の服を、着る。
今日も、薄い。
薄くて、色だ。
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