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辞めた日

境目が、きれいに切れていなかったこと

辞めた日

朗読で聴く

第一章 きれいに

七十一になった。

四十年、町の小さな工場で、働いた。

鉄を、削る工場だ。

六十五で、辞めた。

六年、たつ。

辞める日、こちらは、きれいに、終わるつもりだった。

三か月かけて、若い人に、全部、渡した。

機械の、癖。

図面の、置き場所。

注文の、多い客。

紙に、書いて、渡した。

最後の日、机を、拭いた。

四十年、座った机だ。

拭いたら、何も、無くなった。

道具を、全部、棚に、戻した。

社長に、頭を、下げた。

若い人に、頼むと、言った。

門を、出た。

振り返らなかった。

振り返ると、線が、曲がる気が、した。

きれいに、切ったと、思った。

線を、引いた。

こちらは、線の、こちら側だ。

工場は、線の、向こう側だ。

そう、思った。

妻に、言った。

終わった。

妻は、言った。

お疲れさま。

それだけだった。

第二章 電話

辞めて、三か月目に、電話が、鳴った。

若い人からだった。

あの、旋盤の、音が、変なんですが。

こちらは、聞いた。

どんな音。

若い人は、電話の向こうで、機械を、回した。

こちらは、聞いた。

分かった。

奥の、ベルトだ。

伸びてる。

若い人は、礼を、言って、切った。

こちらは、電話を、置いた。

置いて、思った。

切れていない。

半年目にも、来た。

一年目にも、来た。

六年で、二十回は、来た。

多いときは、月に、二度、来た。

全部、答えた。

答えられた。

答えられるのは、切れていないからだ。

紙に書いた物は、若い人が、読める。

読めるので、電話は、来ない。

電話が来るのは、紙に、無いことだ。

こちらは、線を、引いた。

線の向こうに、工場を、置いた。

置いたつもりだった。

電話が、線を、越えて、来る。

越えて来るのではない。

線が、そこに、無いのだ。

紙に書いて、渡した。

紙は、線だ。

紙に、書けないものが、あった。

書こうと、したことは、ある。

書けなかった。

音で、分かること。

手で、分かること。

それは、渡せなかった。

渡せなかったものが、こちらに、残った。

残ったところは、ぎざぎざだった。

第三章 版

若いころ、版画を、見た。

リノカットだ。

黒いインクで、金槌が、一つ。

金槌のふちが、ぎざぎざだった。

刷った人が、言った。

彫る刀が、版を、離れるところは、ぎざぎざになる。

こちらは、聞いた。

まっすぐ、彫れないんですか。

その人は、言った。

線は、まっすぐ、引ける。

ふちは、線じゃない。

刀が、止まったところだ。

刀は、まっすぐ、止まらない。

止まるとき、少し、裂ける。

裂けたところが、ふちになる。

こちらは、聞いた。

裂けないように、できないんですか。

その人は、言った。

できない。

深く彫るほど、裂ける。

浅ければ、きれいに、切れる。

浅い刷りは、きれいで、薄い。

浅ければ、薄い。

薄い刷りに、ぎざぎざは、無い。

こちらは、そのとき、金槌を、見ていた。

ぎざぎざの、金槌だ。

七十一で、思い出した。

四十年は、深い。

深いところで、刀は、きれいに、止まらない。

辞める日に引いた線は、紙の上の線だ。

紙の上では、まっすぐだった。

版の上では、裂けていた。

裂けたところに、旋盤の音が、残った。

残ったので、電話で、分かる。

分かるのは、ぎざぎざだからだ。

きれいに切れていたら、分からない。

第四章 妻

妻に、言った。

また、工場から、電話だった。

妻は、言った。

うん。

こちらは、言った。

きれいに、辞めたつもりだった。

妻は、言った。

知ってる。

こちらは、言った。

切れてない。

妻は、言った。

切れるわけ、ないでしょう。

こちらは、聞いた。

どうして。

妻は、言った。

四十年よ。

こちらは、黙った。

妻は、続けた。

あなた、夜中に、起きるでしょう。

こちらは、言った。

起きる。

妻は、言った。

機械の音が、するって、言ってた。

しないのに。

こちらは、言った。

言った。

妻は、言った。

それが、切れてないってこと。

こちらは、言った。

六年、たつのに。

妻は、言った。

六年で、四十年は、切れない。

こちらは、言った。

紙に、全部、書いて、渡した。

妻は、言った。

紙に、書けないものが、あったの。

こちらは、言った。

あった。

妻は、言った。

それが、あなたに、残った。

向こうにも、あなたが、残ってる。

電話が、来るんだから。

こちらは、黙った。

妻は、言った。

きれいに切れる仕事なら、四十年、しない。

こちらは、言った。

しない。

妻は、言った。

じゃあ、ぎざぎざで、いい。

こちらは、それを、聞いて、少し、楽になった。

線を引いたのに、切れないのは、失敗だと、思っていた。

失敗では、なかった。

深かった印だった。

第五章 電話に出る

春に、また、電話が、来た。

若い人は、もう、若くない。

四十を、過ぎた。

こちらが、辞めた歳の、半分を、越えた。

あの、油の、においが、変で。

こちらは、聞いた。

どんな。

若い人は、言った。

甘い。

こちらは、言った。

水が、入ってる。

タンクの、上の、蓋だ。

若い人は、言った。

見てきます。

電話が、切れた。

こちらは、置いた。

置いて、思った。

六年、こうしている。

辞めた日に、線を、引いた。

線は、いまも、ある。

こちらは、工場に、行かない。

行かないのが、線だ。

行けば、若い人の、邪魔になる。

線は、守っている。

ふちは、守れない。

ふちは、刀が、決めた。

四十年の刀が、止まったところだ。

止まったところに、においが、ある。

油の、においだ。

甘くなれば、水だと、分かる。

音が、ある。

紙に書けなかったものが、全部、ある。

それは、渡せない。

渡せないので、電話で、答える。

答えるたびに、切れていないと、分かる。

分かって、いい。

きれいに切れたのは、門を出た日の、こちらの足だけだ。

足は、まっすぐ、出た。

出た足の、後ろが、裂けていた。

裂けたまま、六年、いる。

妻が、言った。

ぎざぎざで、いい。

その通りだと、思う。

深く彫ったものは、きれいに、切れない。

切れないものを、切ったつもりでいた。

つもりを、やめた。

線は、引いたまま、置いておく。

ふちは、ぎざぎざのまま、置いておく。

電話が、来たら、出る。

エピローグ

朝、起きる。

することは、無い。

夜中に、機械の音で、起きた。

しない音だ。

六年、している。

これは、切れていない音だ。

鳴らない機械が、こちらの中で、鳴る。

切れていない音が、六年、鳴っている。

辞めた日に、きれいに、切ったと、思った。

紙に、書いて、渡した。

紙は、線だった。

線は、まっすぐ、引けた。

ふちは、裂けていた。

深いところで、刀は、きれいに、止まらない。

止まったところに、こちらが、残った。

向こうにも、こちらが、残った。

電話が、来る。

答える。

答えられるのは、裂けているからだ。

妻は、四十年を、知っている。

こちらより、先に、知っていた。

切れるわけがないと、言った。

その通りだった。

ぎざぎざは、失敗ではない。

深かった印だ。

浅ければ、きれいに、切れる。

きれいに切れる四十年は、無い。

電話が、鳴る。

出る。

どんな音、と、聞く。

ここが、ふちだ。

ソウルミッション358

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