あなたの魂のテーマを探す に戻る

切ったつもり

境目が、きれいに切れていなかったこと

切ったつもり

朗読で聴く

第一章 前掛け

六十五になった。

姑は、去年の冬に、九十四で、死んだ。

二十二年、会っていなかった。

夫が、四十三で、死んだ。

そのあと、こちらは、家を出た。

姑と、二人で、いるのが、できなかった。

出るとき、言った。

もう、来ません。

姑は、言った。

そう。

それだけだった。

きれいに、切ったと、思った。

こちらは、四十三だった。

娘は、十七だった。

高校の、途中だった。

娘を、連れて、出た。

二十二年、行かなかった。

電話も、しなかった。

手紙も、書かなかった。

姑からも、来なかった。

来ないのを、切れた印だと、思った。

切れていると、思っていた。

姑が、死んだ。

夫の弟から、電話が、来た。

来て、ほしいと、言った。

行った。

二十二年ぶりの、家だった。

台所に、前掛けが、掛かっていた。

こちらが、縫った前掛けだった。

結婚して、二年目に、縫った。

紺の、布だ。

紐が、二度、付け替えてあった。

こちらの、付けた紐では、なかった。

布が、薄くなっていた。

薄いのは、手が、当たったところだ。

毎日、当たった、ところだ。

二十二年、使っていた。

こちらは、立ったまま、それを、見た。

切れていなかった。

第二章 線

若いころ、版画を、見た。

リノカットだ。

黒いインクで、湯のみが、一つ。

湯のみのふちが、ぎざぎざだった。

刷った人が、言った。

彫る刀が、版を、離れるところは、ぎざぎざになる。

こちらは、聞いた。

きれいに、彫れないんですか。

その人は、言った。

彫れない。

線は、こちらが、引く。

ふちは、刀が、決める。

止まったところが、ふちだ。

止まったところは、いつも、少し、裂けている。

こちらは、聞いた。

裂けたところは、どうするんですか。

その人は、言った。

どうもしない。

それが、刷りに、なる。

ぎざぎざのまま、刷りに、なる。

こちらは、そのとき、分からなかった。

前掛けを、見て、分かった。

線は、こちらが、引いた。

もう、来ません。

きれいな、線だった。

ふちは、線では、なかった。

ふちは、刀が、決めた。

二十二年、暮らした刀だ。

こちらが、縫った前掛けが、向こうに、残った。

裂けて、残った。

こちらは、線を、見ていた。

ふちを、見なかった。

第三章 こちら側

家に、帰った。

夕飯を、作った。

煮物を、作った。

作りながら、手が、止まった。

味の、付け方だ。

醤油を、先に、入れる。

砂糖を、あとにする。

これは、姑の、やり方だ。

こちらの母は、砂糖が、先だった。

結婚して、姑に、直された。

直されて、腹が、立った。

腹が立ったまま、四十三年、醤油を、先に、入れている。

家を出てからも、二十二年、そうしている。

娘にも、そう、教えた。

娘は、いま、三十九だ。

娘の煮物も、醤油が、先だ。

三代、同じ順だ。

切ったはずの人の、順だ。

こちらは、鍋の前で、立っていた。

向こうに、前掛けが、残った。

こちらに、醤油の順が、残った。

切ったところが、両方、ぎざぎざだった。

きれいに切れたのは、もう来ません、という線だけだった。

線は、紙の上のものだ。

ふちは、版のものだ。

版は、暮らした年の数だけ、深い。

深いところで、刀は、止まる。

止まったところが、裂ける。

第四章 裂けたまま

娘に、言った。

おばあちゃんの家に、前掛けが、あった。

娘は、言った。

どんな。

こちらは、言った。

私が、縫ったの。

娘は、黙った。

こちらは、言った。

二十二年、使ってた。

娘は、言った。

お母さん、切ったって、言ってたよね。

こちらは、言った。

切ったつもりだった。

娘は、言った。

切れてなかったの。

こちらは、言った。

線は、切れてた。

ふちが、切れてなかった。

娘は、聞いた。

どういうこと。

こちらは、言った。

もう来ません、というのは、線。

線は、きれいに、引けた。

でも、ふちは、ぎざぎざだった。

私の縫った物が、向こうに、残って。

おばあちゃんの、味の付け方が、こっちに、残って。

娘は、言った。

醤油が、先の。

こちらは、言った。

そう。

娘は、少し、笑った。

笑って、言った。

私も、それ。

こちらは、言った。

あなたにも、残ってる。

娘は、言った。

残ってていいの。

こちらは、少し、考えた。

こちらは、言った。

いい。

ぎざぎざは、直せない。

直そうとすると、もっと、裂ける。

刀が、止まったところだから。

娘は、うなずいた。

うなずいて、言った。

私も、家を出るとき、お母さんと、切ったつもりだった。

あのとき、言ったよね。

もう、帰らない。

こちらは、言った。

言った。

私も、そう、言った。

姑に。

こちらは、聞いた。

切れた。

娘は、言った。

切れてない。

醤油が、先だから。

第五章 ふち

姑の家から、前掛けを、もらってきた。

夫の弟が、持っていけと、言った。

台所に、掛けた。

二十二年前と、同じ、釘に、掛けた。

釘も、そのままだった。

二十二年前に、こちらが、置いていった物だ。

置いていったのではなく、切ったところに、残った物だ。

残ったのは、切れなかったからだ。

切れなかったのは、深かったからだ。

二十二年、暮らした。

暮らした年の分だけ、版は、深い。

深いところで、刀は、きれいに、止まらない。

止まらないので、裂ける。

裂けたところに、前掛けが、あった。

裂けたところに、醤油の順が、あった。

こちらは、それを、切ったつもりで、二十二年、いた。

線だけを、見ていた。

もう来ません、という線を。

きれいな線を、見ていれば、切れたと、思える。

ふちを、見なかった。

ふちを見たのは、姑が、死んでからだ。

死んでから、前掛けを、見た。

見て、切れていなかったと、分かった。

分かって、腹は、立たなかった。

ぎざぎざは、版が、深かった印だ。

浅ければ、きれいに、切れる。

きれいに切れる相手なら、二十二年、思い出さない。

思い出していた。

毎日、思い出していた。

醤油を、先に、入れるたびに。

入れるたびに、姑の手が、あった。

あったのに、無いことに、していた。

こちらは、それを、腹立ちだと、思っていた。

腹立ちではなく、ふちだった。

裂けたところに、姑が、いた。

姑の裂けたところに、こちらが、いた。

前掛けの紐を、二度、付け替えて。

エピローグ

朝、前掛けを、締める。

こちらが、縫った物だ。

姑が、二十二年、使った物だ。

醤油を、先に、入れる。

姑の、順だ。

切ったつもりだった。

線は、切れていた。

ふちは、ぎざぎざだった。

刀が、止まったところは、裂ける。

裂けたところに、向こうが、残る。

向こうにも、こちらが、残る。

きれいに切れたのは、紙の上の線だけだ。

版は、深かった。

深いところに、刀は、きれいに、止まらない。

娘は、家を出るとき、こちらと、切ったつもりだった。

切れていない。

醤油が、先だから。

娘にも、言った。

ぎざぎざは、直さなくていい。

直すと、もっと、裂ける。

裂けたまま、刷りに、なる。

刷りになったものが、暮らしだ。

前掛けの布が、薄い。

薄いところに、手が、当たる。

姑の手が、当たったところだ。

ここが、ふちだ。

ソウルミッション358

あなたの魂のテーマに気づく場所